遠征4
次の日の朝早く、クラリスは寒い中天幕からでる。外で何か声が聞こえたのだ。
まだ見張り以外の兵は寝ているようで、霧が立ち込める中、周りは静まっている。
馬止めのところに近づくと、黒い大きな馬の影にジルヴェスターとラウレンツがいて何かを話していた。
クラリスは、ラウレンツは高原に出てすぐ別行動を取っていたことを思い出す。
近づくと、ラウレンツがこちらに気づき満面の笑みを浮かべる。
「奥様!お元気そうで。行軍中は陛下と二人にはなかなかなれないでしょうから、きっと気もたってることでしょう」
クラリスは毎度のからかいを華麗に無視し、にこりと微笑む。
「お久しぶりです。どこかに行かれてたんですか?」
ジルヴェスターのほうをちらりと見ながら口を開く。
「奥様もなかなか動じなくなりましたな。陛下の変なところを学んで、可愛らしさがなくならないといいのですが….。…ぅほん、はい。帝国側の水場を偵察しておりました。計画通り、水は干からびておりました。これで、北西の砦の軍を縮小できます。」
クラリスは、そんな調査をやっていたのかと驚く。
ジルヴェスターは、ラウレンツを離れ、クラリスに近づくと肩を抱き寄せ、頭にキスをする。
「クラリス、ありがとう。これで帝国側の意表を突くことができるだろう」
クラリスは、ジルヴェスターをみる。彼は遠く、帝国の方角をみていた。
顔にはいつもの優しさのかけらも無く、戦略家の顔つきであり、口角を少しあげ、瞳は底冷えするような冷たさに炎が浮かんでいるようだった。
高原は、帝国に近づくにつれて、顔つきを変えていった。
平らだった大地に起伏が増え、道は登り下りを繰り返すようになる。岩は大きく、ひび割れは深く、荷駄の車輪が何度も引っかかっては、兵が肩で押した。
そして左手には、深い谷が広がっていた。
行軍の道の、すぐ左。大地が割れたように落ち込んで、霧がかかり底の見えない暗い谷が、道に沿って延々と続いている。縁は崩れやすい赤茶けた土で、風が吹くたび、小さな礫がぱらぱらと闇へ落ちていった。馬たちは本能で右へ右へと寄りたがり、隊列は自然と、細く長く伸びていた。
「帝国に近づくほど、魔獣は増える」
朝、隊列を見回りながら、セラフィンが誰にともなく言った。
「向こうの土地の獣が、こちらへ溢れてくる。……気をつけることだ。とくに、荷駄は」
言われるまでもなく、皆、そのつもりだった。ワイバーンの記憶は、まだ新しい。
それは、昼過ぎ、谷沿いの道がいちばん狭くなったところで起きた。
最初の悲鳴は、荷駄の列の後方からだった。
崖の縁が——動いた。
そう見えた。赤茶けた土の色をした、平たい影が、谷の縁から音もなく這い上がってきたのだ。一匹ではない。二匹、三匹、五匹。人の背丈ほどもある、太い尾を持つ大トカゲ。鱗が土と同じ色で、そこに伏せていても、まるで見えない。
「バジリスクだ! 荷駄を右へ寄せろ! 崖から離せ!」
ディートリヒの声が飛んだ。
獣たちは、兵を狙わなかった。まっすぐ、荷車へ向かった。
一匹が食料の荷車の縁に牙を立て、太い尾で地面を打ち、谷のほうへ引きずりはじめる。ずるり、と車輪が縁へ滑った。
「引かせるな! 車輪を押さえろ!」
騎士たちが車の反対側に取りつき、綱を引き、獣の牙を槍や剣で払う。ディートリヒが一匹の首筋に剣を叩き込み、ルークの火が別の一匹を炙って崖から転がり落とす。それでも獣は次々に縁から這い上がってきて、狙いを変えては別の荷車に食らいついた。
何人かの兵士はバジリスクに噛みつかれ、そのまま谷の下に落ちていく。
クラリスは、荷駄の中ほどにいて、突然の敵襲に混乱し、恐怖で動けずにいた。
「奥様、動かないでください!」
ニクラスが前に立ち、槍を構える。そのすぐ横——魔石を積んだ荷車に、一匹が食らいついた。
馬が、バジリスクを見て狂ったように暴れた。
前脚を跳ね上げ、車体が大きく揺れて、荷台の上の袋が、ひとつ、転がった。麻袋。聖国の魔石を詰めた、あの袋が、荷台の縁を越えて、地面に落ち——獣の鼻先へ転がった。
獣が、それに食らいつく。袋ごと咥えて、崖のほうへ、後ずさりを始めた。
——あれがなければ、水を呼べず、千人の軍が立ち往生することになる。
考えるより先に、体が動く。
「奥様!」
ニクラスの声を背中で聞きながら、クラリスは荷車の陰から飛び出した。身体にある魔力を全開にする。
炎がバジリスクの尻尾で膨れ上がった。頑張って、と自分に言い聞かせて、マナを注ぎ足す。火が、一回り大きくなった。
炎の熱さに耐えきれなくなったバジリスクは、咥えていた袋を放した。
だが、ほっとするのも束の間。そのバジリスクは身をよじって尾を振り回す。その尾が、地面の袋を、真横から——弾いた。
麻袋が、宙を飛んだ。
崖のほうへ。
「——っ!」
クラリスは、手を伸ばした。届いた。袋の口を、指が掴んだ。
掴んだ瞬間、重さが、腕を引いた。
聖国の魔石は、重い。袋いっぱいの石の重みが、飛んだ勢いのまま彼女の体を引きずり、足が、縁の土を踏み——踏んだ土が、崩れた。
視界が、傾いた。
谷の暗がりが、目の前に広がる。落ちる。
背中が恐怖で寒くなった瞬間、腰を、掴まれた。
強い力が、後ろから、腰の帯ごと引き戻す。振り向く余裕はなかった。ただ、視界の端に、白いローブが翻るのが見えた。
セラフィンだった。触れるか触れないかの距離にセラフィンの整った顔がある。
いつ、どこから来たのか、分からない。彼は片腕でクラリスの腰を抱え込み、もう片方の手で、崖の縁の岩を掴み、片足を何とか崖の窪みにかけていた。二人分の重さと、魔石の重さを、その片腕一本で支えて。
下を見ると、クラリスの足はぶらりと崖の下に向かって落ちており、谷は霧がかかっているが、遠くに地面がみえる。背中を冷たい汗が流れていく。
セラフィンは、掴んでいる左手の石をじっと見ながら眉を寄せ、小さく舌打ちをする。
セラフィンが掴んでいる岩が——ぎしり、と鳴った。
赤茶けた縁の土が、その岩の周りから、さらさらと崩れはじめる。岩が傾き、根元から浮き上がり、縁がひと塊になって、谷へ向かって——
崩れた。
「クラリス————ッ!!」
遥か前方から、ジルヴェスターの声が、高原を裂くように響いた。
その声を、落ちていく視界の上のほうに、聞いた。空が、遠くなる。白いローブと、赤い土煙と、魔石の袋の重みと、腰に回された腕の力だけが、いっしょに——谷の暗がりへ、落ちていった。




