出立
その晩、クラリスは寝台の上に紙を広げていた。
湯を使い、寝間着に着替え、あとは眠るだけという格好で、けれど眠るには惜しかったのだ。昼間ルークと詰めた式の、最後の吐口のところが、どうしても頭から離れない。枕を背に立て、膝を立てて、そこに紙を載せて、羽根ペンを走らせていた。
インクの瓶は、寝台脇の卓に危なっかしく置いてある。こぼしたら明日リタに叱られる、と頭の隅で思いながら、手のほうは止まらなかった。第八節の径をあとほんの少し。ここを絞れば、消費がもう一段。
扉が開いたのに、しばらく気づかなかった。
「熱心だね。僕のことも気づかず何を書いているの?」
顔を上げると、ジルヴェスターが扉のところに立っていた。上着を腕にかけ、襟をゆるめた格好で、少し呆れたような、それでいて面白がるような顔をしている。
クラリスは自分の姿を見下ろした。寝間着で、髪を下ろして、膝を立てて、そのうえに紙を何枚も広げて、指はインクで汚れている。母が見たら卒倒する図だった。慌てて腿まで捲れ上がったドレスを整える。
「……お、おかえりなさい」
「ただいま帰りました。新妻が寝台で何をしているかと思えば」
彼は上着を椅子に投げて、寝台のほうへ歩いてくる。クラリスは慌てて紙を集めようとしたが、その手をジルヴェスターがやんわり止めた。
「隠さなくていい。何を書いてるんだい?」
いつのまにかジルヴェスターは敬語を使わなくなっている。
「……暖房の式です」
「暖房?確かそれはルークにお願いした仕事のはずだが。ルークに使われているかい?」
私が手伝っていることが知られてしまいルークに申し訳ない気持ちになったが、あの傲慢な魔法使いだ。きっと気にしないと悩むのをやめ続ける。
「掌の上に、小さな熱を出すだけの。魔石で動くようにすれば、魔力のない人でも使えます。それを薄い金属板に刻んで、外套の裏に縫い込めば、寒いところでも」
言いかけて、クラリスは口を閉じた。夜中に、寝台で、新婚の夫を前に、自分は何を熱く語っているのだろう。
けれどジルヴェスターは、笑わなかった。
正確には、笑ってはいたのだが、それはさっきの呆れた笑いとは違った。彼は寝台の端に腰かけ、クラリスの手から一枚を取って、しばらく眺めていた。彼はどの程度魔法の知識があるか分からないが、それでも彼は、ずいぶん長いこと、その一枚を見ていた。
「私が依頼したのは城中を暖かくしてほしいということだったはすだが」
「……来月、掃討に出ると聞きまして。使い物になるものができれば持っていっていただけますか?」
彼はもう一度、手元の紙に目を落とした。それから、ふっと息を吐くように笑った。
「討伐の件も含め、何も直接伝えられなくて申し訳ない。だけどきみは妙なひとだ」
「え」
「嫁いできて十日で、城の魔法師を働かせ、夜中に寝台で他国の記法を読み、うちの騎士の防寒具を作っている」
彼はそう言って、クラリスの手から羽根ペンを取り上げ、卓のインク瓶のそばに置いた。
「ただし、今夜はここまでにしてくれ。インクをこぼして寝具を汚すと、洗濯場のヘルミーネが泣いてしまう」
「まだ、第八節が」
「第八節は逃げません。この格好をみて誘われない男性はいないよ」
意味がよくわからなかったが、紙を全部まとめて卓へ移されてしまった。抗議しようとしたら、灯りを落とされて、昨晩と同じく優しくキスをされた。そのあと吸い付くようなキスをされたが、昨日よりも激しかった。第八節と同じくらい毎晩陛下と一緒に寝れるのかどうかが気になってることに気づいた。
翌日から、書庫は戦場になった。
朝、クラリスが行くと、すでにルークが起きている——という、この十日で一度もなかったことが起きた。彼は長椅子ではなく卓の前に座り、指の先ほどの魔石を山のように積み上げていた。
「北の坑道から拾わせました。屑石ですが、暖房程度なら十分です」
「板は?」
「工房で切り出し中です。昼には来ます」
それからの日々は、ひたすら手を動かした。
クラリスが式を最終形まで削り、ルークが触媒式に翻訳し、それを工房の職人が薄い金属板に刻む。刻んだ板に魔石を嵌め、試しに起こしてみる。熱くなりすぎたり、逆に温まらなかったり、半刻で魔石が焼き切れたりした。そのたびに三人で原因をさがし、式を直し、また刻み直した。クラリスは金属板に刻む作業にも興味を持ち、三十個以上刻みつつけていた。
「奥様。ここを絞ると熱が偏ります。板の端だけ熱くなっております。」
「….なるほど。では熱を散らす層を一枚」
「重くなる。外套の裏に縫うんですよ」
「……なるほど。では散らすのではなく、最初から二点で出す」
こういうやりとりが、一日じゅう続いた。ルークは天才魔法使いと言われるだけあり、式の改善方法を理解しだしていた。
途中から、職人頭のゲルトという初老の男が、面白がって手伝うようになった。彼は式は読めないが、金属のことなら誰より詳しかった。板の厚みと熱の伝わり方について、クラリスもルークも知らないことを、いくらでも知っていた。
「奥方様。この厚さなら、縫い込むより、こう、内布に挟むほうが軽く仕上がります。ほれ」
「……ゲルト、それだと魔石の交換ができない」
「なら、ここだけ返しを作りますか。指で開けられるように」
三人が三人とも別のことを知っていて、それを持ち寄ると、一人では絶対に届かないところまで届いた。クラリスはこの数日で、シェルナで過ごした十八年ぶんくらい、ものを教わった気がした。ゲルトは最後の最後にクラリスが王妃と知り腰を抜かしていた。
夜、寝台に戻ると、たいてい指がインクと金属の匂いになっていた。リタは泣きながら爪のケアをしたが、深く削れた爪はどうにもならない。ジルヴェスターは、それについては何も言わなかった。汚れた指を取って、少しのあいだ眺めて、それから何も言わずに離した。ジルヴェスターの手は想像よりも大きく角張っているなとぼんやり思った。
最初の一着が仕上がったのは、出立の三日前だった。
薄い金属板を内布に挟んだ外套は、見た目はごく普通だった。ただ、裏に手を入れると、じんわりと温かい。魔石ひとつで、朝から晩まで保つ。
「五十着は、ぎりぎり間に合います。」
ルークが、めずらしく疲れた顔で言った。目の下に隈ができている。この男が徹夜をしたところを、クラリスは初めて見た。
「本当は、二百着ぜんぶに配りたかったけど」
「今回は五十でいいでしょう。前衛に出る者だけで。……効くとわかれば、次からは城じゅうで作らせます」
出立の前日、その五十着は騎士団へ渡された。
出立の朝は、よく晴れていた。
中庭に、二百騎が整列していた。婚礼の日の百人とは、まるで違う光景だった。皆が甲冑をつけ、馬に乗り、息が白い。金属と革と馬の匂いが、朝の冷たい空気に混じっている。
クラリスは、回廊の上からそれを見ていた。
先頭に、ジルヴェスターがいた。
普段の着崩した姿ではなかった。黒い甲冑を隙なくつけ、濃紺のマントを肩から落としている。金髪を後ろで括り、兜は小脇に抱えたままで、馬上から隊列を見渡していた。
遠くからでも彫刻のような美貌がみえ、日差しが自然と金色の髪の毛がきらきらと輝く。
馬の上のその人は、静かで、大きく、二百騎のいちばん前にいることが、この上なく自然に見えた。彼が何か短く言うと、隊列がひとつ動いた。
これがアルダーンの王か、と彼女は初めて腑に落ちたが、自分が妻であることが信じられずとても遠くに感じた。
ジルヴェスターが、ふと回廊のほうを見上げた。
彼は隊列の前で、ほんの少しだけ笑って、それから馬をこちらへ寄せてきた。回廊の下まで来て、見上げる。
「あの」クラリスは手すりから身を乗り出した。「気をつけてくださいね」
言ってから、つまらない言葉しか出てこない自分に焦った。
ジルヴェスターは、それを聞いて、目を細めはっきりと笑った。
「ご心配なく。たいした相手ではありません。…外套の件、礼を言います、クラリス。行ってきます」
そう言って、馬首を返した。
隊列の前に戻り、片手を上げる。それだけの合図で、二百騎が動きはじめた。蹄の音が地面を揺らし、門のほうへ流れていく。マントの列が、朝の光の中を進んでいった。
クラリスは、その列がすっかり見えなくなるまで、回廊に立っていた。
「奥様。お風邪を召します」
いつのまにかリタが横に来ていた。
そういえば、次に会うのがいつなのかを誰も教えてくれていないことに気づいて、少しだけ、回廊の手すりを握る手に力が入った。




