温もりの式
書庫の卓には、朝から紙が三枚広げてあった。
「あなたのぶんも見つけておきましたよ」
長椅子に半分横になったルークが、卓に顎で示す。さっきまで廊下にいたはずだが、隠し道でもあるのかと疑ってしまうくらいすでに書庫に馴染んでいた。
見てみると三枚とも、古い記法で書かれた式だった。
ぱっと見て、暖房の式だとわかった。
「この城は寒すぎるんです、冬は長いですし。石造りは冬に応えます。陛下が急にこの城を温めろと依頼してきまして。流石に僕の巨大な魔法量でも城全体を温め続けるなんて馬鹿げている。」
ルークはこの依頼がクラリスのせいだと言わんばかりに切れ長の目で睨みつけた。クラリスは昨晩の会話を思い出したが、まさかと思い気にせず渡された式を見る。三枚のうち二枚は、部屋ひとつを丸ごと暖める規模の式だった。石の床下に温石を並べ、そこへ火の式を通す。城の主要な部屋ではもう使われている、ごく古典的なものらしい。
面白いのは、三枚目のほうだった。
同じ暖房でも、規模がずいぶん小さい。掌のうえに小さな熱源を置くだけの式で、部屋を暖めるにはとても足りない。しかも、これがいちばん古い書き癖だった。
「なぜこんなに小さいのが、いちばん古いんですか」
「そこですよね」
ルークがようやく上体を起こした。
「今の記法だと、暖房というのは部屋ぜんぶを暖めるものです。石の床、壁、天井、全部。だから式もそういう組み方になっている。ただ、この三枚目は、そもそも部屋を暖めていない」
「掌の上のものだけを暖めている」
考えながら思わず口を注いででる。
「持ち歩いていたのかしら」
言ってから、クラリスは自分の言葉に少し驚いた。あまりに自然に口が動いていた。
「石の暖房は動かせないでしょう。でもこの式は、消費が小さいから、たぶん歩きながらでも起こせる。それで小袋か何かに入れて、懐に忍ばせていた」
「…ただ魔法消費量が比較的少ないとはいえ、一定の魔力保有者が限られてることを考えれば、使用者があまりいなかったのかもしれませんね」
ルークが少しのあいだ黙って、それから、卓に肘をついてこちらを見た。
三つ目の式を、クラリスがそのまま今の記法に書き直しその後二人で削り直しはじめた。
原型は美しかった。ただ、今の記法から見ると、あちこちに二重の弁が入っている。第五節でやったのと同じことをやればいい。念のために足された安全弁を外し、そのぶんを効率に回す。試算してみたら、消費はおよそ半分になった。
「これでは、まだ多い」
クラリスは羽根ペンを止めた。
「そうですね。奥様のような魔法量の方だと数時間で魔力切れを起こしてしまいますね」
クラリスはルークの無駄口を無視し、魔力量の少ない人でも一日中つけていられるくらいに、もう一段下げる方法はないかと考えた。
「魔力を持たない人でも、魔石を使えば起こせるはずでしょう。触媒式に落とし込めば」
ルークが、初めてまともに黙った。
「….なるほど。王妃陛下が、初日に城の魔法師の眠りを奪い、四日目には魔石で誰でも使える暖房を作ろうとしているとは。古代魔法には魔法のコンセプトが多く眠ってるようですね」
彼は何かぼやきながら、それでも卓に身を乗り出して、こちらの計算に目を落とした。しばらく紙面を追って、それからひとことだけ言った。
「触媒式なら、僕が書けます」
「本当?」
「僕を誰だと思ってるんですか」
半刻ほど、二人とも黙って手を動かした。
クラリスの側は式そのものの改稿、ルークの側はそれを触媒式に翻訳する作業だった。彼の手が速い。式を丸ごと頭に入れているから、写しながら組み替えができる。ときどき、こちらが第七節の吐口を触ると、向こうが第八節の吐口を勝手に合わせている。
これは楽しい、とクラリスは思った。
シェルナで一人で書いていた時間の何十倍か楽しい。相手のいる研究というのは、こういうものなのかと、生まれて初めて知った。
そこまで思ったところで、ルークが不意に口を開いた。
「そういえば、先ほど」
「はい」
「盗み聞きは楽しかったですか」
手が止まった。
「……ばれてました?」
「柱の影は音がよく響くんですよ。それに、私は物音に慣れています」
「ごめんなさい」
ルークは羽根ペンを卓に置いて、こちらを見た。眠そうな目のままだった。
「奥様。廊下で聞いたことは、たぶんぜんぶ本当です。あなたの兄君は優秀で、シェルナはこの十年で無視できない国になった。だから奥様が呼ばれました。ただこの魔法式の解読力というか設計力は貰い物ですね。僕もものすごく普段は忙しいので仕事の分担ができそうで助かります」
「え」
言い方があっさりしすぎていて、逆に嘘ではないとわかった。
「そういえば」
ルークがついでのように言った。
「陛下、来月の頭に少しばかり出られます」
「出る?」
「掃除です」
意味がわからず、クラリスは首をかしげた。
「魔獣の掃除ですよ。この数年、辺境で数が増えていましてね。ふた月に一度くらいの頻度で、騎士団が出て掃討している。もう七回目か八回目です」
「陛下も、出られるんですか」
思わず声が跳ねた。
ルークはきょとんとした顔でこちらを見て、それから、心底わからないという顔をした。
「アルダーンですよ、奥様」
「はい」
「騎士国家です。王が剣を持たないでどうします」
言われて、たしかに、と彼女は思った。シェルナは違った。シェルナの王は書斎で書き物をする人で、剣を握るのは兵長の仕事だった。父が甲冑をつけている姿を、一度も見たことがない。
「陛下は、強いんですか」
「強いですね。この城、むしろヴァルガリアを入れても敵うものはいないかも知れません」
「陛下は、剣に注ぐマナの量が桁違いに多いんです。並の騎士の五、六人分は入る。だから斬ると、鋼が鋼を通ります」
クラリスは羽根ペンを持ち直した。あの可憐な顔立ちの陛下を思い出す。昨晩、肩幅や胸板の厚さに驚きはしたが。
「剣に注ぐ、というのは、要するに、触媒式にマナを流しているんですよね」
「ええ。刃に刻んである式に、通しているだけです」
「じゃあ、原理は魔法師と同じ?」
「同じですよ」ルークがうっすら笑った。「騎士は式を組めないだけです。組めなくても、量で押せる人はいる」
シェルナでは魔法師と騎士は別のものだったはずだ。魔法は魔法で使いながら、剣はあくまで武器としての剣だ。国によってこんなに発展の仕方が異なるのかと驚く。
その日、クラリスが書庫を出たのは、日がとっくに落ちてからだった。
廊下を歩きながら、彼女は自分の掌の上で、まだ小さな熱を思い浮かべていた。
昔の人は、こういうものを持ち歩いたのだ。掌に入るくらいの、静かな暖かさを。それを八百年、誰も作らなかった。作っても使える人がいなかったから。ただ、いま、辺境で凍える騎士が二百人ほどいる。凍えないほうがいいに決まっている。
そう考えていたら、頬が少し熱くなった。趣味止まりと言われていた魔法がまさか活かせる可能性があるとは考えたこともなかった。人のために何かをするということに少し胸が熱くなる。
たぶん、月の四つの丸とは、別のことをやろうとしている。それが月の四つの丸を出すよりずっと彼女には楽しかった。




