城の朝
目が覚めたときには、隣は空だった。寝台の反対側の枕がわずかにへこんでいるだけで、体温はもうどこにも残っていない。窓の外は白い。夜のうちに雪が降ったらしかった。
隣の空白をみていると昨夜の記憶がもくもくとよみがえり頬が熱くなる。手鏡で顔をみると胸のところに赤い痕跡があることに気づく。夢だったのかとも思うがどうやら昨日陛下は来たようだった。
結婚した姉が男性と身体を重ねると愛情が増すと騒いでたことをふと思い出した。毎日ジルヴェスターと一緒に寝るのだろうか、とふと想像したら下半身が熱くなり布団を強く握りしめた。
その時扉が叩かれ、リタが湯の支度を告げて下がっていった。相手の様子を探るようなことはしない娘である。
湯を使い、朝の卓に着く。
しばらく経ってオズヴァルトが書き付けを一枚持って現れた。
「本月のご予定を、ざっとまとめてまいりました」
差し出された紙に、月末までの日付が並んでいた。丸がついているのが数えるほどで、あとは白い。三日、聖堂への寄進の同席。九日、南部の代官の謁見。十六日、祝詞。二十日、貴族の女性方への月例のお茶。四つだった。
「多い月でも、六か七ほどでございましょうか」
読み終えて、少し呆けた。シェルナにいたころも王女としての公務はあったが、そういうものは姉たちが引き受けたので、彼女に回ってくることはなかった。三番目に用がない、というのはそういう意味である。ここでもそれと似た扱いを受けているのかというと、そうではないらしい。
「城の管理のほうは」
「私めがすべて回しております。先王妃陛下がお亡くなりになって以来、そのように。奥様が家政にお手を伸ばされることは、もちろん歓迎いたします。ただ、当面はお心のご負担にならぬよう、私めのほうで従来通りに動かしておきます」
丁寧な言い方であるが拒絶も感じた。ただ、クラリスは正直心底安心した。城の管理についてはしの字も知らない。ここから城の管理など任されたと父母が知れば卒倒してしまうだろう。
「わかりました。お任せします」安心して思わず満面の笑みになる。
オズヴァルトが下がっていったあとに、紙が一枚残った。丸が四つ。
シェルナを発つとき、彼女は自分にも使い道があったと思った。関税がひとつ下がるかもしれない、麦が融通されるかもしれない、と考えた。あれは事実なのだろう。ただ、その「使い道」の実務は、月に四つの丸で片づく分量なのだった。
しばらく紙を眺めてから、羽根ペンを取った。裏返して、余白に第四節の流量の計算を書きはじめた。
しばらくして立ち上がった。石の壁と暖炉だけで作られた部屋には、雪明かりが少しずつ深く差し込んで、それが目に痛くなってきたのだ。外へ出ることにした。
回廊を歩いていくと、遠くから騎士たちの声が聞こえる。回廊から身を乗り出すと鍛錬場が見える。クラリスは廊下の階段を降り、鍛錬場にむかった。
ラウレンツが数人の若い騎士に剣の握りを教えていた。彼は口も手も動かしながら、ときどき冗談を挟んで若手を笑わせている。ふとこちらに気づくと、片手を挙げて呼びかけてきた。
「奥様。ちょうどよいところに。まだご紹介していない者を、揃えてしまいましょう」
ラウレンツはそう言って、こちらへ足を運びながら、まず組み合いを終えたばかりの大男を呼んだ。
「ヴィム・ラウターと申します」
近くで見上げると、ラウレンツより頭が二つぶん高かった。腕は丸太のようで、手は熊のような形をしている。何かを掴めば、握るまでもなくそのまま持ち上げていきそうな体つきだった。
「うちの古参でしてね。二十五年前からずっとこの城の兵長で、私が見習いのころから鍛えていただきました。無口な男ですが、剣の腕は誰よりも上です」
ヴィムは短く頭を下げただけで、口は開かなかった。ただ、下げた頭を戻すときにこちらの顔を一度しっかりと見て、それから低い声で言った。
「峠の負傷者の件、聞き及んでおります。回復魔法の担い手とは素晴らしいですね。ありがとうございました。」
続いて、ラウレンツは若手のほうを振り返った。列の端で、明らかに落ち着かない様子の少年が飛び上がるように前へ出てくる。
「ニクラス・アルベルと申します」
十六になったばかりという少年のような黒髪の美青年で、頬に寒さと緊張とで血が集まっている。
「先月、正式な騎士になったばかりでしてね。峠でご一緒したのは、こいつです」
「王妃様、よろしくお願いします。まさに深窓の姫様というお噂以上の美しさで驚きました!しかも回復魔法の担い手とは、まるで聖女様ですね!」
クラリスの顔は赤くなったり青くなったりした。とにかくこの子を黙らせたいと彼女は強く思った。深窓の姫など呼ばれたことはない。引きこもり姫の間違いだろう。口をぱくぱくしていると、二クラスが続ける。
「王妃様、そういえばガウルとの戦闘の時サポートしてくださいました?ガウルが目の前で転けたんですよ。二匹とも。そうしたら皇妃様が窓から何か魔法を使われたようにも見えて…」
クラリスはこの時になって初めて、二クラスが戦闘のあとクラリスを見てた騎士だと気づいた。大した魔法でもないし大袈裟にしたくなく横に首を振った。ニクラスは考え込むような仕草をして口を開きくけたが、ラウレンツによって止められた。
「ディートリヒ・エルヴェンと申します」
最後の青年がラウレンツに押され挨拶をする。背筋の伸びた青年で、身なりが訓練場にいるのが不思議なくらい整っていた。胴衣も新しく、髪も乱れがない。名乗り方が短かった。エルヴェンの部分を、他の音より少し強く発音したのは、たぶんわざとだった。
「クラリスです。よろしくお願いします」
礼の角度は、王妃に対するそれとしてまったく間違いがない。ただ、その正しさ以外のものが、何ひとつ表に出てこなかった。目も合わせない。合わせないまま、ぴったり適切な言葉だけを述べた。
「本日はご機嫌よろしゅう。以後、お見知りおきくださいませ」
「こちらこそ」
それだけで、彼は列に戻っていった。見送ってから、ラウレンツが小さく息を吐いた。
「エルヴェン家は、この国でも指折りの古い家柄でしてね。あれで剣は筋がいいんです。ただ、少し、その、頑ななところがある」
そこで彼は言葉を切って、それ以上は言わなかった。政治的なところにあまり興味を持てないクラリスは、そういうこともあるでしょうという気持ちで見つめた。
しばらく外をぶらつき、寒くなってきたところで城に戻ろうと考えていたとき、別の方向から声が届いた。回廊の柱の陰で、二人ぶんの足音が止まっている。一人は先ほど挨拶してディートリヒのようだ。
「——ヴァルガリア帝国の話が、まだ来てるらしい。さっきも使者がきていた。」
「あれか。皇女殿下の」
「陛下がずっとお断りしているが、あちらは諦めきれないらしい。まあ、あの強く美しい陛下だ、諦められるほうがどうかしている」
「陛下も気の毒だ。あちらの帝国の姫を迎えていれば、うちも安泰だったのに」
「口を慎め」
「事実だろう」
その後ろから、聞き覚えのあるふてぶてしい声が割り込んだ。
「うるさいですね、廊下で」
クラリスは思わず柱の影に身を寄せた。
「魔法使い……」
「陛下の決定にいつまでもぐちゃぐちゃ言ってないで、剣の修行でもしたらどうです。あなた方は暇なんですか」
「暇ではない」
「暇に決まっているでしょう、それだけ人の縁組みに詳しいのだから。それに、次の戦闘で無事に済むよう祈っていたほうがまだ建設的だ。僕は行きませんからね、面倒くさい。せいぜい怪我でもしないように心がけてください」
「ルークは、いつもそれだ」
「そもそも、ヴァルガリア帝国が安泰の縁だと本気で思っているなら、あなた方は少し勉強が足りない。僕は勘弁いただきたいですね、大層なお姫様が来られても困ります。だいたい、シェルナのヴィルス王太子があまりにも優秀で、近隣諸国から支援を集めるようになったからでしょう。だからアルダーン側からシェルナに人質をと願い出た。陛下は最も損のない縁を選ばれたんです」
そこで気配が動いた。ルークは長い足でさっさと廊下の奥へ消えていき、二人の騎士は少しのあいだ黙って、それから別の方向へ歩き去った。
クラリスは柱の陰から動けなかった。
シェルナのヴィルス王太子があまりにも優秀で、
アルダーン側からシェルナに人質をと願い出たという話は初めて聞いた。
クラリスは気になることが多すぎたが、母国の政治のことはさっぱり分からない。確かにヴィルスお兄様は優秀であったが目をつけられてたのだろうか。また、次の戦闘ということも気になったが考えても仕方がなかったので、書庫へ向かった。




