婚礼
朝は、遅い時間に始まった。
正確には、いつもと同じ時間に始まったのだが、そこから何ひとつ許されなかった、というほうが近い。
湯を使って、髪を洗われて、乾かされ、また結い上げられる。冠の重さを確かめ、外し、また載せる。指輪の径を測り直し、履物の紐を締め直し、そして最後に、婚礼衣装が箱から出された。
淡い緑の衣装が、白いレースで縁取られている。母が三度仕立て直させた一着だった。裾には銀の糸で細く一本、シェルナの紋の一部が入っている。控えめな入れ方だった。「一部」というのは、大国に嫁ぐ姫の衣装に自国の紋を入れるのは失礼だとされているから、そのぎりぎりのところで、わかる人にだけわかる形にしてあるのだ。国同士の婚礼では花嫁側の出席は基本的に許されない。母の最後の小さな反抗心なのであろう。
「まあ」
袖を通し終えたときに、リタが声を漏らした。
「なに」
「……いえ。何でもございません」
「何で泣くのよ、これからも一緒でしょう、リタ」
「泣いておりません」
そのままリタは横を向いて、袖で乱暴に目を拭った。
礼拝堂に着くころには、日はすでに高かった。
二百人ほどが入っている。到着の日には見えなかった貴族たちが、このときばかりは全員が揃っていた。彼らはクラリスを見て、それから隣に立つジルヴェスターを見て、また彼女を見た。値踏みされているのがわかったが、値踏みされて困るような値打ちを最初から持っていないので、あまり気にならなかった。
ジルヴェスターは、白に近い薄い灰色の礼装を着ていた。
これも飾りが少ない。ただ布と仕立てだけで押してくる。金髪が肩へ落ちて、白の襟の上で光を拾っていた。
「——きれいだ」
彼が小さく言った。
聞こえた瞬間、クラリスの心臓が跳ねた。
聞こえたと同時に、それが社交の型どおりの言葉でもあったことに気づいた。
きれいだ、と言われて跳ねた心臓と、これは社交だ、と気づいた頭とが、同じ胸の中で並んで動いていた。落ち着かないことこの上ない。
祝詞のあいだ、彼女は司祭ではなく、その向こうの壁のあたりを見ていた。壁の模様が気になったのだ。
途中でジルヴェスターに視線を落とされたのがわかり、慌てて司祭をみた。
そのあと司祭が持つ祝辞の書き付けが面白い古代語を使っていることに気づき目で追う。
誓いの言葉は短かった。互いの名を呼び、手を取り、それで終わりである。彼の手は乾いていて、少しだけ熱かった。クラリスの手のほうが冷たかったかもしれない。
顔を上げたとき、彼と目が合った。
ジルヴェスターは小さく笑った。
昨日の食事のあとの、目のあたりの力が抜けている笑い方だった。厳粛な場だというのに、まるで重みがない。おかげでクラリスの肩からも力が抜けたので、たぶんそれでよかったのだろう。
祝宴は大広間だった。
三百人。オズヴァルトの言ったとおりの数が、入っていた。
「奥様、こちらへ」
ジルヴェスターと共に挨拶を繰り返していたが、ジルヴェスターが長く貴族に捕まっている間待ちぼうけになっているクラリスに助け舟を出してきたのは騎士のラウレンツだった。副長だときてすぐに紹介された、大柄の明るい髪の騎士である。シェルナから来る時に護衛に当たってくれたハーゲンも副長と言っていたから副長は二人いることになる。杯を二つ持って、人の流れの半歩外れた位置へ、それとなくクラリスを誘導した。
「そのままでは日が暮れます」
そのあとしばらく、彼はクラリスの隣にいて、話しかけてくる貴族を上手にさばいた。途中クラリスはこの国の貴族の服は、胸のボタンの周りに古代の文字で祝いの言葉が書かれていることに気づいた。ただの模様やデザインとして名残が残っているだけなのだろうが、クラリスはそれを読むことに途中から夢中になった。話を聞いてないとも気づかない老貴族が南の谷の霜の話を四半刻続けた。話を全く聞いていないと気づいたラウレンツが横で肩を震わせていた。
そのうち、貴婦人が数人でこちらへ来た。
先頭にいるのは、若い令嬢だった。明るいシルバー色の髪を高く結い、薄い紫の衣装を着ている。到着の日に、階段脇から会釈をしなかった女性である。
「奥様、いえ王妃様とお呼びするべきですね。ご婚礼、おめでとうございます。デルマ侯爵の娘、エイリーンですわ。」
「はじめまして。クラリスです。本日はありがとうございます」
「素敵なお衣装ですこと。シェルナのものですの?」
「はい。」
微笑みの後の沈黙が、ほんの少しだけ長かった。
「アルダーン産の生地はお好きでなくて?陛下が力を入れて作りあげた繊維産業はご存知ですわよね」
そこでクラリスは他の令嬢たちが、前にジルヴェスターが来ていた記事と同じ光沢のある綺麗な生地のドレスを着ていることに気づく。勉強不足を恥じ、クラリスは俯きくけたが、俯いたところでエイリーンのドレスの縁にも古代語を使った紋様が書かれていることに気づく。クラリスは思わず手を伸ばす。
「まあ!エ…ミスラー..スワントラ….正確な古代語とは少し違うようですが、おそらく貴女の美しさを謳ったものでしょう。みなさまこういった紋様をつけられるんですね!なんて素敵なドレスでしょう。」クラリスは思わず文字に顔をつけて話す。
エイリーンの微笑みが、一瞬固まった。
「…は?」
「こちらでは古代語をアレンジした紋様が人気でございますか?」
クラリスは思わず満面の笑顔でエイリーンの手を握って話す。イルゼは何か別のことを言われたような顔をして、それから浅く会釈をして去っていった。連れの女性たちが、去り際にこちらを一度ずつ振り返っていく。
「奥様」
ラウレンツが感心したような呆れたような声を出した。
「今のは、わざとですか」
「何がです」
「……いえ。何でもございません」
広間の中央では、ジルヴェスターが常に三人か四人に囲まれていた。老いた貴族にも、若い騎士にも、給仕の少年にも同じように声をかける。よく笑い、よく喋り、誰かが笑うとさらに何か足す。
そのうち、目が合った。
彼はほんの一瞬だけこちらを見て、それから話し相手のほうへ視線を戻した。それだけのことなのに、クラリスは杯を持ち直した。
宴が長引き、日が完全に落ちてから、オズヴァルトが呼びに来た。
「奥様。お先にお部屋のほうへ」
先に、というのはつまり、そういうことである。
礼拝堂で覚悟したはずのことが、いまごろになって重みを持ちはじめた。廊下を歩きながら、クラリスは自分の指先が冷たくなっているのに気づいた。
新しい部屋は、南の翼のいちばん奥だった。
昨日までの部屋よりさらに広く、暖炉の火は落としてある。窓のそばに卓と椅子。奥に大きな寝台。飾りの少ない部屋だった。ジルヴェスターの服と同じ趣味だ、と思って、思ってから頬が熱くなった。
冠を外し、髪を下ろしてもらう。婚礼衣装を脱ぎ、軽くお湯に浸かり寝間着に替えた。白い薄地の、袖の長いもの。上に薄い羽織を重ねる。それだけで、リタは支度を終えた。
「では、失礼いたします」
「リタ」
「はい」
「……ありがとう。今日一日」
リタが顔を上げた。何か言おうとして、結局は深く一礼して部屋を出ていった。
ひとりになると、部屋が急に広く感じられた。
暖炉の脇の椅子に腰を下ろす。暖炉の前であっても夜は寒い。シェルナの冬は心地いい程度の寒さであるため、なかなか慣れなそうだ。膝の上で手を組み、それから、なんとなく組み直した。心臓のあたりが、静かに速かった。
考えることを、探した。
第五節の弁。ほかの探知の式との比較。ルークに何時に会いに行くか。冬の式と暖かいところの式の違い——
そこまでで、扉が叩かれた。
「入りますよ」
返事をする前に、ジルヴェスターは入ってきた。
彼はもう湯を浴びたのかカジュアルなシャツを来ている。襟が緩められていて、そこから見える喉のあたりを、暖炉の光がなぞっている。彼が動くたびに、金髪の毛先が肩の上で揺れた。
「クラリス様、お待たせしました。宴が長引いて」
「いえ」
「寒いですか?」
「少し。……シェルナの冬は暖かいですから」
そういうと、彼は少し考えてなんとかしましょうと言った。そして微笑んで、そのまま近づいてきた。近づくとエルダンの花の匂いがした。
暖炉の前の椅子に手をついて、彼は屈み込むように顔を寄せた。
「……今日はとても美しかった。他の人に見せたくないくらいでした。」
彼はそのまま、頬に触れてきた。ほんの一瞬、頬骨のあたりをなぞって、耳の下で止まる。触れ方が、たいへんに慣れているように感じたが、心臓が止まる思いだ。1ミリも動けない。こんなふうに男性と向かい合ったことはない。ましてやこんな美しい人は見たこともなかった。
「怖い?」
「……怖くはないです」
「本当?」
「本当です。ただ、緊張して。…すみません、私はこういうのが初めてで。」
けれどジルヴェスターは、それを聞いて短く笑った。今夜いちばん素の笑い方だった。
「それはよかった」
そう言った次の瞬間、彼の手が耳の下から首の後ろへ回って、そのまま、口づけられた。
思ったより優しかった。優しいのだが、離れなかった。何度か角度を変えて、そのあいだクラリスの肩は椅子の背もたれに軽く押し付けられていて、逃げるという選択肢が、たぶん初めから存在していなかった。
離れたときには、彼女の呼吸のほうが乱れていた。
「クラリス」
「……はい」
初めて名前だけで呼ばれた。「殿」がついていなかった。
「寝台へ」
彼はそう言って、片手を差し出した。
差し出された手を、クラリスはしばらく見ていた。
考えていたはずのこと——第五節の弁、探知の式、暖かい国と寒い国の記法の違い——それらが、今夜ばかりは、まるで戻ってこなかった。
差し出された手を、取った。
彼は握らなかった。指を絡めて、そのまま引き寄せた。
ベッドに優しくクラリスを横たえると、その上に覆い被さるようにジルヴェスターが乗り、彼の細い指がスカートを捲り上げ腿を触った。まるで電気が走ったかのように身体が熱く、思わず呻き声をあげた。
彼を押し返そうとすると、彼は手を頭の上に押さえ、優しくキスをし、キスは胸の方へ移動し、そのまま下に下がっていく。
そのあとのことは、あまりよく覚えていない。ただ、金色というのは光を持っていく色だという、昨日の発見が、今夜もう一度、まったく違う意味で確かめられた。それだけは、たしかに残った。




