晩餐
その日の午後、オズヴァルトが改まった顔で部屋へ来た。
「本日の夕餉、陛下がご一緒にと申しております」
初めて話した時に陛下が言っていたことであるが、リタが小さく息を呑んだのがわかった。
「クラリス様、こちらに座っていてくださいませ」
「もう準備するの?」
「三刻はかかります」
リタは侍女を二人呼びさっそく準備にかかった。
髪を解かれ、洗われ、乾かされ、また結い上げられた。爪を磨かれ、指を揉まれ、頬にほんの少しだけ紅を差された。母が持たせた衣装のうち、いちばん軽いものを着せられる。淡い緑の、裾に銀の糸が細く一本だけ入ったものだった。
「動かないでくださいませ」
「動いてない」
「動いております。何かお考えの時指が動きます」
そうだったろうか、と思って自分の手を見たら、たしかに人差し指が卓を叩いていた。
支度が終わって、リタが鏡の位置を直した。
「……あの、クラリス様。ご自分でご覧になってください」
言われて、クラリスは鏡を覗いた。
栗色の髪が、この城の暗い石壁を背にすると、いつもより色が濃く見える。緑の目が、衣装の緑と重なって、そこだけ深くなっている。頬の紅はほとんどわからない程度なのに、顔の印象が変わっていた。
しばらく眺めてから、クラリスは言った。
「これ、髪をこうやって上げると、耳が寒くない?」
「クラリス様」
シェルナにいたころ、姉たちは彼女を美人だと言った。母などは、あなたはとにかく笑っていれば済むのだから、と本気か冗談かわからないことをよく言っていたことを思い出す。ただ、第五節の弁のほうが、よほど考える価値がある。
食堂は、大広間ではなく東の翼の小さな部屋だった。
窓が三つ並んでいて、外はもう暗い。卓には燭台が四つ、それだけで部屋がじゅうぶんに明るかった。給仕が二人と、扉のそばにオズヴァルトが控えている。
ジルヴェスターは、クラリスより先に来ていた。
椅子から立ち上がって、こちらを見て、一瞬、彼の動きが止まった。
「——ああ」
「え」
「いや。失礼」
彼は自分で自分の言葉に苦笑して、それから、いつもの調子で笑った。
「よくお似合いです。緑がお好きですか」
「母が選んでくれました。」
「ではお母上に礼を言わねば。よくご存じの方だ」
そばにいた侍女が慌てて椅子を引き、座らされた。距離が近い。角を挟んで隣り合わせに座らされていることに、クラリスは座ってから気づいた。
近いので、否応なく目に入る。
昨日の騎士のマント姿ではなかった。深い炭色の上着に、刺繍も飾りもないが綺麗な光沢がある。カジュアルというにはきちんとしていて、正装というには軽い。ただ、飾りがないぶん、着ている本人だけが浮いて見えた。金の髪も灰色の目も、色のない布の上ではよけいに際立つ。しかも髪は今日、半分だけ後ろで留めてある。
「昨日、城を回られたそうですね。どうでした」
「とても広くて迷いました。」
「私は十歳まで迷っていたと聞いているでしょう」
「聞きました」
「オズヴァルトは、その話をする機会を三十年待っていたんですよ。ようやく話せて、さぞ満足したことでしょう」
扉のそばで、オズヴァルトの咳払いが聞こえた。
料理が運ばれてきた。
汁物、それから魚。シェルナでは見たことのない魚だった。骨の抜き方がわからず、クラリスが手を止めていると、ジルヴェスターがごく自然に自分の皿を示した。
「こう入れて、こう。背から外すと楽です」
「……はい」
「アルダーンの魚はどれもこうです。骨が多くて身が少ない。山の国ですから、まともな魚は全部よそから来る」
やってみたら、たしかに外れた。
そのあとも彼はよく喋った。よく喋って、よく笑って、こちらが黙っていても少しも気にしなかった。峠の話、城の話、去年の冬に厨房長が凍った池に落ちた話。どれもたいした話ではないのに、聞いていると、なぜか場が途切れない。
話をききながらクラリスは燭台の光が彼の髪を拾っていることに気づいた。金色というのは光を持っていく色なのだと、クラリスは初めて知った。灯火の魔法に色の考えを入れるのはどうだろう?白い光よりも金色の光の方が発光量が高い可能性もあるだろうか。
「クラリス殿」
「はい」
「聞いていませんね」
「聞いてました」
「では、今の話の続きを」
「……」
正面から笑われて、クラリスは杯を持ち上げて顔を隠した。
顔が熱い。あれだけ物思いに耽ることを母に怒られていたのに。ただ、陛下が笑ってくれる人で良かったとほっとした。リタが下を向いているのが横目で見える。
こういうとき、姉たちならどうしていただろう。
長姉は男の人と喋るのが上手かった。次姉も、たいして興味のない相手でもきちんと会話を続けていた。クラリスはそのあいだ、たいてい壁際で式のことを考えていた。あのとき、少しは付き合っておけばよかった。
一度もそんなことを思ったことがなかったのに、生まれて初めてそう思って、自分でもかなり驚いた。
「そういえば」
ジルヴェスターが杯を置いた。
「昨日、書庫へ行かれたそうですね」
「……はい」
「ルークが騒いでいましたよ。今朝、私のところへ来て、しばらく黙っていたかと思うと、シェルナから来た方は古い記法が読めるのかと。あの男が自分から人の話をしにくるのは、五年ぶりくらいでしてね」
「騒ぐようなことでは。読めたというより、シェルナの古い書き方に似ていただけです。母音の位置が入れ替わっているだけで、骨は同じでした。たぶんもとは一つのものだったんだと思います。分かれてから八百年経つと、あのくらいはずれるんでしょう」
言ってから、クラリスは魔法式のことだと喋りすぎると姉に言われてたことを思い出し口を閉じた。
顔を上げると、ジルヴェスターが先ほどとは違い、新しい動物を見つけたかのように興味深そうにこちらを見ていた。
「いや、続けてください」
言われたので、クラリスは続けた。
続けているうちに、また止まらなくなった。第三節の分岐のこと、第五節の弁のこと、あれがたぶん記法が変わったときの消し忘れであること、それを確かめるにはほかの探知の式を三つ四つ見比べればいいこと。
ジルヴェスターは口を挟まなかった。
途中で給仕が皿を下げに来たのを、彼が手で止めたのに、クラリスは気づいていなかった。
「——というわけで、たぶん要らないんです。あの弁は」
言い終えて、ようやく自分が何をしていたかに気づいた。
「……本当に、すみません」
「いえ」
ジルヴェスターは、少しのあいだ黙っていた。
それから、笑った。
さっきまでの笑い方と、違った。何がどう違うのかは説明できない。ただ、目のあたりの力が抜けていて、そこだけ作りものではなかった。
「クラリス殿。ひとつ伺っても」
「はい」
「その話をしているとき、ご自分がどんな顔をしているか、ご存じですか」
「え」
「いえ。……食事を続けましょう」
彼は給仕に合図を出した。
部屋へ戻る廊下は長かった。
リタが先を歩いて灯りを持っている。その灯りが石壁を撫でていくのを見ながら、クラリスは考えていた。
顔。どんな顔と言われても、自分の顔は見えない。ひどい顔をしていたのだろうか。式の話をしているときに眉が寄る癖なら、老師にも指摘されたことがある。
たぶんそれだ。そう結論づけてから、クラリスは自分の頬に手を当てた。
まだ熱かった。
部屋に入り、扉が閉まってから、クラリスは寝台に腰を下ろして、しばらく天井を見上げていた。
男慣れしておくべきだったのかもしれない。ただ、あんな整った顔、完璧な表情では太刀打ちできないのではないか。
たった一度の食事で、こんなに疲れることがあるのか。
三日後には、あの人の妻になる。
……いや、と彼女は思い直した。
いま考えるべきはそこではない。あの弁である。明日、書庫へ行って、探知の式をあと三つ四つ見比べれば、名残か意図かの決着はつく。ルークにも見せておいたほうがいい。あの人なら記憶で照合できるはずだから、こちらが棚を漁るより早い。その決着が何だというのだと前から周りには指摘されたが、これは趣味なのだ。
そう考えていたら、少しだけ落ち着いてきた。
クラリスは寝台に横になって、目を閉じた。
金色というのは、光を持っていく色。
そのことだけが、なぜか最後まで残っていた。




