書庫の魔法使い
翌朝、オズヴァルトは約束の刻限ちょうどに現れた。
「ご気分はいかがでございましょう」
「よく眠りました。あの、ひとつ伺っても」
「はい」
「昨日の夕方に鳴っていた鐘、あれは何ですか」
「日没の鐘でございます。城門を閉じる合図で、あれが鳴りますと外の者は入れませんし、中の者も出られません。夜半にもう一度、見回りの交代で鳴ります」
なるほど、とクラリスは思った。シェルナの城に鐘はなかったが、それは門を閉めるのに合図が要るほど広くなかったのだ。
案内は大広間から始まった。
天井が高い。高いというより、見上げても終わりがすぐには来なかった。梁が三重に組まれていて、いちばん上のあたりは薄暗くてよく見えない。窓が細いのは外から見たときの印象どおりで、そのぶん光が筋になって落ちてきて、床の石を斜めに切っている。
クラリスは首を反らせたまま、しばらく黙っていた。
「こちらが大広間でございます。婚礼の祝宴は、こちらで」
見渡したかぎり、三百人は軽く入りそうだった。シェルナで一番大きな部屋は、たしか八十人ほどで満員になる。社交の社の字も知らない身としては、それだけで頭が痛くなってくる。
とはいえ、口に出しても仕方がないので黙っていた。
「クラリス様」
「あ、はい」
「お足元にお気をつけを。ここの石は磨いてございますので」
言われたとおり、床は鏡のようだった。歩くと自分の足が二つ見える。
謁見の間、次の間、控えの間と続き、それから長い廊下に出た。廊下がまた長い。片側にずらりと窓が並んでいて、その一枚一枚のあいだに、色の褪せた織物が掛かっている。
「こちらは歴代の——」
「あの、オズヴァルト殿」
「殿はご無用でございます。オズヴァルトとお呼びくださいませ」
「では、オズヴァルト。……ここ、どのへんですか」
オズヴァルトが足を止めて、こちらを見た。
「……と、申しますと」
「その、さっきの大広間から、どっちの方向に来たのか、もうわからなくて」
正直に白状した。実際、三度曲がったところで方角を見失っていた。窓の外は中庭ばかりで、しかもその中庭がひとつなのか複数なのかもわからない。
オズヴァルトはごくかすかに口元を緩めた。
「南でございます。窓が右手にあるあいだは南か東、左手に来れば北か西。この城は角がすべて直角に組まれておりますので、窓の位置さえ覚えておられれば、まず迷いません」
「……窓の位置」
「はい。閣下も十歳になるまでは、しばしば迷子になっておられました」
十歳と比べられてどうなのか、とは思ったものの、クラリスは少しだけ救われた気分になって、窓の側を確かめながら歩き出した。
その後もオズヴァルトは、一室ごとに丁寧に説明を続けた。ここが礼拝堂、この階段の先が客人用の東の翼、西が執務と兵の区画。厨房はどこ、洗濯場はどこ、湯を頼むときは誰に言えばよいか。頼み事の宛先まで、いちいち名前を出して教えてくれる。
案内は、北の塔の前で一度途切れた。
「こちらは現在使っておりません。階段が傷んでおりますので、お立ち入りはご遠慮くださいませ」
四つの塔のうち、いちばん低くていちばん細い。木の扉に鉄の帯が三本渡してあって、その帯が錆びていた。上のほうにしか窓がないのが、外から見たときから気になっていた。
「三十年、誰も入っていないんですか」
「修繕の順が回らぬまま、かれこれそのくらいには」
「中はどうなってるんです」
「さて。私も入ったことがございません」
そのとき初めて、オズヴァルトが少し困った顔をした。困ったというより、こういう質問をされることに慣れていない顔だった。
「オズヴァルト」
「はい」
「書庫は、どちらに」
説明が、そこで止まった。
「……書庫、でございますか」
オズヴァルトは少し考える仕草をして、クラリスの顔をじっと見てから続けた。
「ございますが、蔵書の大半は古い記法のもので、当代の魔法師でも読める者は限られております。埃もひどく、床も抜けかけているところがございまして、とてもご案内できるような」
「読めなくていいんです。見たいだけなので」
オズヴァルトはしばらくクラリスを見ていた。それから、ごくかすかに眉を上げた。
「……承知いたしました。ご案内いたします。ただし、床の抜けかけているところには近づかれませぬよう。あそこで奥方様に何かございましたら、私の首では足りません」
書庫は、西の翼のいちばん奥にあった。
扉を開けた瞬間、埃と紙と、古い革の匂いが一度に押し寄せてきた。クラリスは思わず立ち止まる。
天井まで棚だった。梯子がなければ上の段には届かない。しかも棚は手前だけでなく、奥へ奥へと列をなして続いていて、いちばん奥は薄暗くて見えなかった。細い窓から落ちる光の筋の中で、埃がゆっくり回っている。
「何冊くらいあるんだろう」と独り言を言ってしまったクラリスに「わかりません」という回答がすぐに返ってきた。
案内に出てきた司書長は、痩せた老人だった。そう答えてから、遠慮なく咳をした。
「読める者がおりませんので。三段目から上は古い記法でございます」
司書長はそれきり奥の机へ戻ってしまった。オズヴァルトも一度礼をして下がったので、クラリスは急に一人になった。
いい匂いだ、と思う。埃のことではなく、紙の匂いのほうである。シェルナの父の書斎と、根のところが同じだった。
近い棚に手を伸ばし、背表紙の題を追う。
読める、とすぐにわかった。古い記法と呼ばれているものは、シェルナで古代記法と呼ぶものとほとんど同じだった。母音の位置が入れ替わっているだけで、骨は変わっていない。
一冊を抜き出して開くと、見開きに式が刻まれていた。
第一節、第二節——七節まである。探知の式らしい。長い。ずいぶん無駄がある。この分岐は要らないのではないか。ここを外せば第五節がそのまま第七節に繋がるはずで、そうすれば消費は三割は。
「そこは外せませんよ」
背後から声がした。
クラリスは驚いて振り返り、勢いで肩が棚に当たった。上の段に積んであった書物が数冊、ずるりと傾く。
とっさに頭を庇おうとしたのと、腕を掴まれたのが同時だった。
引かれた勢いでよろけて、気づいたときには他人の腕の中に半分収まっていた。落ちた本が、さっきまで立っていた場所で乾いた音を立てる。
「動かないで。もう一冊来ます」
言い終わる前に、最後の一冊が落ちた。
クラリスは顔を上げた。
すらりとした体つきの青年が立っていた。銀に近い灰色の髪を、首の後ろで適当に括っている。魔法師が好む灰色の長衣を着ていた。
顔立ちは整っているのに、灰色がかった青い瞳が冷たい印象を与える。クラリスは思わず一歩下がった。
そして、その整った顔が、心底うんざりした表情をしていた。
「僕の貴重な睡眠を邪魔するのは、どなたですか」
「え」
「今日はもう動かないつもりだったんですよ。アルダーン陛下は、ご自分の見目の良さをわかったうえでそれを武器に信じられない量の仕事を持ってくる方でしてね。昨晩も深夜まで魔獣退治だったんですよ」
この国でいちばん偉い人に対する発言とは思えないと思いながら視線を追うと、棚の向こう側の窓辺に長椅子があって、上着が丸めて置いてあった。枕にしていたらしい。
クラリスは慌てて彼から離れた。
「……すみません、本当に寝ていらしたんですね」
返事はなかった。彼はこちらを一瞥しただけで、屈んで散らばった本を拾いはじめる。文句を言っている割に、埃を払う手つきはやたらと丁寧だった。
「そもそもあの棚に七冊も積んだ司書長が悪い。三度言いましたよ、いつか誰かの頭に落ちると。落ちるまで直さない人ですからね、あれは」
「はあ」
「まあ、落ちたのが僕の頭でなくてよかった」
そこで彼は初めてこちらを見上げて、少しだけ真面目な顔をした。
「怪我はありませんね?」
「ありません」
「よかった。では引き続き、僕は寝ます」
本を棚に戻し、彼は長椅子のほうへ歩き出した。
クラリスは、拾ってもらった一冊を手にしたまま、その背中に声をかけた。
「あの、さっきの、外せないというのは」
男が足を止めた。
「第三節の分岐です。あれは経路が二重になっているように見えますが、片方は逆流を止めるためのものでね。外せば流れが戻って、術者の側に返ります。指が二、三本もっていかれる」
「……声に出てましたか、わたし」
「はい」
恥ずかしくなって黙り込んだが、それより気になることがあった。
「でも、じゃあ第五節の弁は何をしているんですか」
「は?」
「あれも同じ向きに効いていますよね。二重に止めているように見えるんですけど。第三節で止まっているなら要らないはずで、二つ入っているのはたぶん昔の名残で、記法が変わったときに古いほうを消し忘れたか、あるいは——」
そこまで喋ってから、クラリスは口を閉じた。
黙っていようと思っていたのに、式の話になると勝手に口が動く。昔からそうだった。
男の背中が、動かなくなっていた。
彼はゆっくりと振り返った。さっきまでの、半分眠ったような目つきが消えている。
「……その本、初めて開きましたよね」
「はい、今」
男は長椅子から離れ、こちらへ戻ってきた。近い。近いというより、この人は他人との距離というものをあまり考えていないらしい。
「僕は十四年これを見ています」
さっきより低い声だった。
「この城で三段目から上を読める者はいません。僕もほぼ読めない。読めないから、丸ごと暗記して使っているだけです。分岐の意味も、そういうものだと思って基本呑み込んでいる。……まあ、僕の場合は理解する必要がなかった、という言い方のほうが正しいのですが」
「……たまたまです。シェルナの古い書き方に似ていたので」
「たまたまで指が残るなら結構なことです」
彼はクラリスの手から本を取り上げ、頁を繰った。目の動きが速い。速いというより、一枚を見ている時間があまりに短かった。
「僕は魔法量が困らないだけあるのと、式を全部覚えられるので。おかげで十四年、古い記法は多くは読めないまま魔法師長をやっています」
魔法師長。
クラリスは相手の顔を見直した。どう見ても二十四か五である。
「あの、失礼ですけど、お若く」
「歳なんて関係ないでしょう。ただ正直、組織には興味がないので勘弁してほしいところなんです」
あっさり答えてから、彼は思い出したように片手を胸に当てた。ひどく不慣れな、必要最低限だけの礼だった。
「ルークと申します。ここの魔法師長です。……ところで、あなたはどなたですか」
「クラリスです。シェルナから来ました」
ルークの手が止まった。
淑女の名乗り方ではなかったな、とクラリスは今さら気づいて焦ったが、相手はそこを気にしている顔ではなかった。
「シェルナ」
「はい」
「三日後に婚礼をなさる」
「はい」
しばらく沈黙があった。
やがてルークは深々とため息をついて、面倒くさそうに頭を掻いた。
「まいったな。奥様でしたか。礼儀を考えることに体力を使いたくないんですよね、僕は」
態度の大きさに驚きながら、クラリスはふと、昨日のジルヴェスターの笑顔を思い出した。あの、貼りつけたような、完璧に感じのいい笑い方。
それを思い出したせいで、この無礼な男に、なぜか少しだけ親近感がわいた。
ルークは本をもう一度クラリスの手に押し戻した。
「奥様は、あまり魔法量が多くないようですね。ならば式の改良は役に立つでしょう」
「……どうせ、そんなに使うこともないんです。趣味のようなものなので、お気になさらず」
言いながら、胃のあたりが少し重くなった。
魔法など、そもそも誰もが使えるわけではない。あるだけでもシェルナでは褒められた。それをこうも事もなげに、たいしたものではないと言われるとは思っていなかった。
「あの、この書庫、毎日いらっしゃるんですか」
魔法量の話から離れたくて、話を変えた。
ルークは長椅子のほうを一度振り返り、それから初めてまともに笑った。
眠そうな顔のまま笑うので、始末が悪い。
「ええ。ここが城でいちばん誰も来ませんので」
それだけ言うと、彼は本当に長椅子へ戻っていった。上着を丸め直し、こちらに背を向けて、それきり動かなくなる。
引き止める理由も思いつかなかったので、クラリスは静かに書庫を出た。
魔法量が多くない、と言われたことを、もう一度思い出した。
事実なのだから仕方がない。シェルナでは並より少し上だと言われてきたが、あれはシェルナの中での話で、この城の物差しでは違うのだろう。今日ようやくそれを知った。
——まあ、それはそれとして。
第五節の弁である。あれはやはり要らない。二重に止める意味がない。あの棚には探知の式がほかにも三つあったはずで、そちらにも同じ弁が入っているかどうかを見れば、名残なのか意図なのかがわかる。
クラリスは足を速めた。




