灰の城とアルダーンの王
アルダーンの城が見えたのは、峠を越えて二日目の昼過ぎだった。
灰色の岩山をそのまま削り出して、削った石を上へ積み直したような城だった。装飾がほとんどない。塔が四つ、高さの違うものが不揃いに立っていて、壁には蔦の一本も這っていない。窓は細く、数が少なかった。
シェルナの王城は白い漆喰に蔦を這わせて、春には壁一面に花が咲く。父が母のために植えさせたのだと聞いている。ここには花の咲きそうな場所がひとつも見当たらなかったが、そのぶん、石の積み方がやたらと目についた。八百年ぶんの継ぎ足しが、色の違いになって層をなしている。
「大きいのね。あの塔、下のほうと上のほうで石が違う」
「よくご覧になってますね」窓の横に馬を寄せていたユアンが笑った。「あの城だけは魔人戦争のころから建っているそうですよ」
八百年。ということは、書庫も八百年ぶんあるということだ。クラリスは細い窓のひとつひとつを目で追いながら、どの塔がいちばんそれらしいか、勝手に見当をつけはじめた。
近づくにつれて、見当は外れていった。
遠くから眺めていたときは、四つの塔が城のすべてに見えたのだ。ところが坂を回り込むと、その手前に城壁があり、城壁の内側に別の建物が三つほどあり、さらにその奥に塔が立っているという構造がようやくわかった。門は二重で、外門をくぐってから内門まで、馬車でしばらくかかった。
「ユアン」
「はい」
「あの、これ、どこまでがお城なの」
「壁の中は全部のはずです」
「……全部」
「シェルナの王城が四つ入るそうですよ」
クラリスは窓から首を引っ込めて、座席に座り直した。それから、なんとなく膝の上で手を組んだ。
門をくぐると、中庭に人が並んでいた。
思っていたよりずっと多い。侍従と侍女が二列、その後ろに騎士たちが整列し、さらに奥の階段脇には貴族らしい装いの男女が十数人。ざっと見て百人は下らない。
向かいでリタが、参着の礼装の襟をもう一度整えている。
シェルナを発つ前、母はこの一着だけを何度も仕立て直させた。国境を越えてから門をくぐるまで着るもので、輿入れの一行が到着するその半月程度のためだけに存在する衣装である。婚礼衣装のほうは別の箱に納めてあって、祝いの日まで誰も蓋を開けない。母はそういうところは厳格だった。
その、半月ためだけの一着の裾に、いま乾いた泥がこびりついている。
昨日の夕方、ぬかるみに降りたときのものだった。リタは宿場でほとんど夜を明かして落としにかかったらしく、朝には濡れた布を三枚駄目にしていた。おかげで色の濃い部分はずいぶん薄くなったが、裾を回した縁の織り目に入り込んだぶんだけは、どうやっても出てこなかった。
替えはない。この一着しか持ってきていないのだ。旅装で門をくぐるという手もあるにはあったが、それこそ母が卒倒する。
「クラリス様、あの」
リタが小声で言う。何を言われるかはわかっていた。
「あなたのせいじゃないわ。わたしが降りたからでしょう」
「ですが」
「三枚も布を駄目にしたんですって? そこまでする?」
「四枚でございます」
「増えてる」
言いながら、クラリスは自分の裾を見下ろした。堂々としていたいが、こういう時どう対応していいか自信がない。人の目線に無頓着だとさんざん言われてきた彼女でも、さすがに気になる程度の緊張感がこの門の内側にはあった。だが、下に着る服は変えるから清潔さは問題ないとしても、一週間も同じ服なんて儀式とはいえ汚れるに決まってると思い開き直った。
馬車の扉が開けられ、クラリスはそのまま降りた。
前へ進み出た年配の男が、深く礼をする。
「侍従長を務めております、オズヴァルトと申します。ようこそおいでくださいました、クラリス様。長のご旅程、まことにお疲れさまでございました」
「クラリス・シェルナと申します。お世話になります」
顔を上げたオズヴァルトの視線が、ほんの一瞬だけ裾へ落ちた。
「峠でガルムが出まして。降りたところがぬかるんでおりました」
「伺っております。お怪我のなかったことが、まずは何よりでございます」
彼はそこで少しだけ間を置いた。
「——ご心配には及びません。お召し替えのご用意はすでに整えてございますし、あの泥については、すでに城じゅうに話が回っております。奥様は御者の傷に術をお使いになったと。皆、たいそう感心しておりますので、堂々とお通りくださいませ」
クラリスは思わずオズヴァルトの顔を見た。
「……ありがとうございます」
「もったいないお言葉でございます」
すると、ふと並んでいた騎士や侍女が一斉により頭を下げた。見ると中央の建物の階段の上から男の人がら急足に降りてくる。
近づくにつれて、クラリスは自分が瞬きを忘れていることに気づいた。
背が高く黒の騎士用の黒いチュニックにに濃紺のマントを着崩し気味にはおい、金髪を肩のあたりで無造作に散らしている。この灰色の城のなかで、そこだけ日が当たっているように見えた。顔立ちは線が細いのに甘くなく、目の色は薄い灰色——この土地の岩と同じ色をしているはずなのに、そこだけが妙に明るい。
長兄は目を惹くほど美しいと、クラリスは自分の家族についてそう思っている。だが、それとは違う種類というか格の違いを感じざるをえない。
「申し訳ございません。会議が長引きお迎えに遅れてしまいました。アルダーン国王、ジルヴェスターです。長かったでしょう、あの道は」
「クラリス・シェルナと申します」
きちんと言えた、と思う。膝は少し笑っていたが、声は震えなかった。
「ガルムが出たと聞きましたよ。お怪我は?」
適度に微笑みながら自然とクラリスの手を取りながら話すため、クラリスの頭は固まり会話どころではなかった。
「あ、ありません。わたしは馬車の中でしたので」
「それは何より。全くこちらの不手際です。あの街道は本来、五十騎も出すような道ではないんです。今年に限ってそうもいかなくなった。…立ち話で話すことではないのでまた夕飯のときにでも。」
彼はあっさり話を切り上げて、にこりと笑った。整いすぎた顔でそれをやられると、少し卑怯な感じがする。
「まずはお休みください。婚礼は三日後です」
三日後かと改めて思い小さく頷いた。
周りを窺うと、階段脇の貴族たちがこちらを見ている。何人かが会釈を返してきたので、そのつど頭を下げた。
「すまない、今日は客人が入っていて、城内を案内できません。明日、私が——いや」
彼はそこで少し考えた。
「明日も無理そうだな。オズヴァルト、頼めるか」
「かしこまりました」
「そうしてくれ。この城は広い。案内なしで放り出すと、三日は出てこられません」
最後のひとことは、たぶん冗談だった。ただ、あとになってクラリスは、それが必ずしも冗談ではなかったことを知る。
ジルヴェスターは片手を上げて階段を戻っていった。途中で下働きの少年とすれ違い、その子に何か言って、少年は嬉しそうな顔で駆けていく。
「……お忙しい方なんですね」
「はい。アイダールの国王ですから。元国王であるお父上様が2年前に急死されて以降休みもなく。本日は北からの使者が入っておりまして」
オズヴァルトは静かに答えた。それから、こちらへ向き直る。
「クラリス様。お部屋へご案内いたします。城内のご案内は明日といたしましょう。本日はまず、湯を使われてお休みくださいませ」
そう言われて、クラリスは初めて、自分の脚がずいぶん重いことに気づいた。
部屋は南向きの一室で、思っていたよりずっと広かった。
暖炉にはすでに火が入っている。長椅子があり、寝台があり、衣装を掛ける小部屋が続きになっていて、さらにその奥に湯を使うための部屋まであった。シェルナでは湯は運ばせるものだったから、部屋に付いているというのがまず驚きだった。
窓からは中庭が見下ろせる。その向こうに、四つのうちいちばん低くて細い塔が見えた。
「まあ、クラリス様、こちらを」
リタが小部屋のほうから声を上げた。行ってみると、寝台の脇の卓に果物と焼き菓子と、水差しが二つ置いてある。片方の水差しには布が巻かれていて、触ると冷たかった。
「これ、氷?」
「山から下ろしているそうでございます。この時期はまだ残っていると」
クラリスは杯に注いで、ひとくち飲んだ。冷たさが喉から下りていくのがはっきりわかった。寒い季節に、暖かい部屋で冷たい飲み物を出す小さな習慣からも如何に裕福な国であるかを感じた。
もうひとくち飲んで、それから杯を置いた。温かい歓迎が身に沁みる。
湯を使って、着替えて、寝台に腰を下ろしたころには、日が傾きはじめていた。
窓の外を見る。中庭を挟んだ向こう側で、騎士たちが訓練をしているらしい。剣の打ち合う音が、風の具合で切れ切れに届く。そのさらに向こうに、あの低い塔が立っていた。
「クラリス様。まずはお休みくださいませ」
「休んでるわ。座ってるもの」
言いながら、クラリスは窓辺の机に目をやった。荷はまだ半分も解けていないが、机だけはすでに空になっていて、天板が拭き清められている。誰かが気を利かせたのだろう。手を置いて広さを測ってみると、紙が三枚は並びそうだった。
明日は城の案内があるという。書庫の場所も訊いておかなければならない。それから、この土地の記法のこと。ここの騎士は剣に式を刻んでいたが、あの刻み方も見せてもらえるだろうか。
考えているうちに、頭の芯のあたりが重くなってきた。
「リタ」
「はい」
「やっぱり少し寝るわ」
「そうなさいませ」
外で、鐘が鳴りはじめた。低い、長い音だった。何の鐘なのか、あとでオズヴァルトに訊いておこうと思った。訊いておきたいことが、今日一日でずいぶん増えていた。
**ヒロインとヒーロー、イメージ作ってみました!




