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国境と魔獣

国境には、石が積んであるだけだった。

街道の脇に人の背丈ほどの石積みが二つ、雪解けで崩れかけたまま放置されている。


「向こう側からは、アルダーンの警備に入ります。峠の手前で引き継ぎますので、あちらの騎士が出ているはずです。引き継ぐといっても、我々も城まではお供いたしますのでご心配なく」


シェルナの護衛騎士長がクラリスに伝える。


クラリスは窓から身を乗り出して、後ろへ続く列を眺めた。荷馬車が十二台。先頭に近い四台に持参品と献上品を積み、中ほどの六台が食糧と飼葉、最後尾の二台には予備の車輪と大工道具が載っている。護衛は二十四騎、侍女と馬丁を合わせて三十人あまり。侍女のうち馬車に同乗しているのはリタひとりで、残りは衣装や調度とともに後方の幌馬車に乗っている。

十日かけて、この一行の形をすっかり覚えてしまった。

 


ふと見送りの時の両親の心配そうな顔と小言を思い出す。


心配されるのも無理はなかった。

社交というものをまともに習っていないのだ。茶会の席次も、貴婦人同士の挨拶の順序も、誰かが教えようとするたび自室へ逃げた。父も母も咎めなかった。誰が、この余り物第三王女を大国の王妃になんて考えただろう。自分の人生であるが、人生こんなものなのかと笑ってしまう。


この国同士の婚姻は、アルダーン王国のライバルであるリアンツァ王国が隣国と親交を深めていることに対する、リアンツァ牽制のためにアルダールに要求されただけで、あまりにも急遽に決まったことだった。



けれど、いまはクラリスは怖いと思うより先に、ほんの少し嬉しかった。


シェルナがアルダーンと縁を結べば、関税がひとつ下がるかもしれない。凶作の年に麦を融通してもらえるかもしれない。三番目の姫にできることなど、たかが知れている。それでもこんな自分にも使い道があったのかと、そのときは我ながら間の抜けた感想を抱いた。




しかも、である。クラリスの顔は緩む。


アルダーンは八百年前から続く大国で、城も八百年前から建っているという。ということは、書庫も八百年ぶんあるはずだ。記法が違うのだから、読めない式が山のように眠っていることになる。


そう考えると、行き先が急に悪くない場所に思えてくるのだから、我ながら安上がりにできている。




馬車が石積みのあいだを抜けた。車輪の音も風の音も、さっきまでと何ひとつ変わらない。それなのにクラリスは息を詰めていて、通り過ぎてしばらくしてから、ようやく自分がそうしていたことに気づいた。



峠の手前にアルダーンの騎士たちが待っていた。

数えて、五十騎。こちらの倍以上だった。


黒に近い濃紺の外套に、装飾のない鎧。肩と胸のあたりだけが厚く盛り上がっている。並び方に隙間がなく、シェルナの騎士たちが四日かけて緩めてきた間隔が、隣に並んだ途端にだらしなく見えた。


「ハーゲンと申します。アルダーンで副長を務めております。峠を越えるまでご案内いたします」


指揮官らしき男が馬上から短く名乗った。三十ほどの、黒髪で目つきの鋭い男だった。クラリスが窓越しに礼を返すと、彼は一度だけこちらの顔を確かめ、それきり前へ視線を戻した。無礼ではないが興味というものがまったくないのか、荷の点検を済ませた人間の目つきに似ている、とクラリスは思い、その連想が自分でも失礼だったので黙っていた。


峠を登りはじめてしばらくすると、土の色が変わった。

シェルナの土は赤い。けれどここの土は灰色で、細かい石が混じっていて、指で潰しても崩れそうになかった。

木立も違う。針葉樹ばかりが立ち並び、下生えが薄いせいで、林の奥まで見通せてしまう。寒いのだ、とわかった。見えている山が近づいてきたのではなく、ここがもう山の裾なのだ。


国境を越え数日たち、ある日の昼をだいぶ過ぎたころ、列が止まった。窓から顔を出すと、ユアンが荷馬車のあいだを縫うように歩き指示を出している。ユアンはようやく布の端を結び終えて顔を上げた。


「姫様。何かあったら、まずご自分の馬車から離れないでください。守る場所が動かないほうが、こちらは楽なので」

「わたし、荷物みたいね」

「一番大事な荷物です。魔獣が出ることもあるようなので警戒を。」

しれっと言い置いて、彼は次の馬車へ歩いていった。シェルナの騎士が二人、彼の指示を受けて動きはじめる。





音が来たのは、そこからまた数日経った日が傾きはじめたころだった。馬のいななきとは違う、もっと低く湿った、地面を擦るような音。列が急に止まってクラリスは前のめりに倒れかけ、リタが小さな悲鳴を上げた。外で誰かが叫んでいる。


「ガルムの群れだ!」



その一語が三度繰り返されてから、ようやく意味として頭に入ってきた。


窓に張りついて外を見ると、走る人と馬で視界がふさがれ、その隙間の向こう、木立の暗がりで何かが動いていた。魔獣だ。四つ足で、背が異様に高く、動きに上下の揺れがない。

シェルナの騎士が火の式を放った。橙色の光が三つ、木立へ向かって飛んでいき、着く前に弾けた。クラリスは思わず眉を寄せる。距離を読み違えたのではなかった。式が粗いのだ。第五節の結びが緩いせいで、飛んでいるあいだにマナが漏れ、目標に届く前に燃え尽きている。


アルダーンの騎士たちは火を使わなかった。抜いた剣に白い光が薄く走る。刃に刻まれた式へマナを通したのだ。彼らはそのまま馬を寄せ、すれ違いざまに斬った。一撃で獣の背が割れ、黒い体液が雪の残る地面に散った。クラリスは思わず顔をそむけた。


「右だ、荷に回った!」


ユアンの声だった。食糧を積んだ馬車の脇にガルムが二頭、いつのまにか回り込んでいる。御者が転げ落ち、繋がれた馬が暴れて車体を軋ませていた。騎士たちは前方の三頭に取りついていて、誰も手が空いていない。


「三番と五番を切り離せ、馬だけ逃がせ!」


叫びながら、ユアンが剣を抜いて駆けていく。

ガルムの一頭が、馬車の後ろへ回り込もうとしていた。あそこを抜けられれば、次は侍女たちの乗る幌馬車になる。火は使えない。荷に燃え移る。


考えるより先に、手のほうが動いていた。


シールドの式なら体に入っている。ただあれは大きく張るための式で、面積を稼ぐために第二節に長い枝がついている。今は面積など要らない。クラリスは頭のなかでその枝を切り落とし、浮いた分をそっくり強度へ回した。手のひらほどの板が四枚あれば足りる。

ガルムの前脚が地面を蹴る、その一瞬先の空間へ。


見えない板が四枚、地表すれすれに立った。踏み込んだ前脚がそれを蹴り、獣の体勢が前へ崩れる。爪が土を掻き、耳障りな声が上がった。時間にすれば三秒あったかどうかだが、届く者にはそれで足りる。横合いからアルダーンの騎士が二騎駆け込み、白い光が二度走って、獣は動かなくなった。



クラリスは窓枠から手を離した。指先から熱が引いていき、膝が笑いはじめる。実際の戦闘を見たのは初めてだった。魔獣というものは、こんなにも当たり前に出るものなのだろうか。自分がいかに何も知らずに十八年を過ごしてきたか、こんなときになって思い知る。座り込みそうになって、慌てて座席に手をついた。


「クラリス様! お顔が真っ青です」

「そういう顔なの、もともと」


魔力を急に使ったためで嘘だったが、リタは何も言わなかった。元々クラリスは魔力はあるが魔力量は豊富ではない。外はまだ騒がしい。ただ声の質が変わっていて、追われる側の声ではなくなっていた。



戦いが終わったころには、あたりはすっかり暗くなっていた。松明が灯され、隊列が組み直される。獣は五頭で、四頭を仕留め、一頭が木立へ逃げた。シェルナの騎士が二人、アルダーンの騎士が一人、それぞれ傷を負った。横倒しになった馬車は一台だけで、中身は無事だった。

クラリスが馬車を降りると、すぐにユアンが飛んできた。

「姫様。出ないでくださいと申し上げたはずですが」

「二人しか医者はいないでしょう。知ってのとおり、わたしは多少なりとも魔法が使えるのよ」


ユアンは何か言いかけて口を閉じ、諦めたように脇へ退いた。そのあいだにクラリスは横倒しの馬車のほうへ歩いていく。


正直なところ、自分の膝もまだ震えていた。魔獣を見たのも、傷を負った人間を見たのも初めてだ。ただ、シェルナの役に立たない姫をひとり運ぶために、この人たちは血を流したのだと思うと、じっとしてはいられなかった。


御者が腕を押さえて座り込んでいる。血が肘まで垂れていた。

「腕を見せていただけますか」

「奥方様、これしきのことで」

答えを待たずに、クラリスは傷へ手をかざした。回復の式は、シェルナでは比較的よく研究されている。といっても、できるのは体が本来やることを少し急がせるだけで、消せるのは血と、塞がりかけの縁くらいのものだ。深いところまでは届かない。


それでも何もしないよりはと、傷のできるだけいちばん深い部分にだけ式を通し、残りは侍医に任せることにする。さっきシールドに回した分がまだ戻っていないので、これ以上は無理だった。


少し離れたところで、アルダーンの騎士たちが獣の死骸を検分している。切れ切れに声が届いた。

「五頭。今月に入って三度目だ」

「街道まで下りてきたのは初めてだろう」

「山に餌がないんだ。そういう年もある」

「そういう年だとして、こいつは何を食っていた」

声の主はハーゲンだった。屈み込んで、獣の腹のあたりを検めている。

「痩せてる。骨が浮くほどにな。それでいてこの数で、これだけ走る。俺は餌のない山から下りてきた獣を何度も見てるが、こういう下り方はしない」

「では、なんだと」

「知らん。だから引っかかってる」


ハーゲンはクラリスがいることを横目で確認すると立ち上がり、それきりその話をやめた。

「奥様、外は危ないですのでお戻りください。おい、お前ら、出立するぞ!日のあるうちに峠を越える」

号令が飛び、隊列が慌ただしく動き出す。



クラリスは急いで馬車へ戻った。

「クラリス様、お召し物が」

リタが泣きそうな顔をしている。見下ろせば、外套は裾が土で汚れ、膝から下がひどいことになっていた。降りたところがぬかるんでいたのだ。

「……着替えは、あったかしら」

「旅装しか」

「じゃあ、それで」

「城にお着きになるのに…」

リタはそれ以上は何も言わずに外套を脱がせにかかった。その手が震えているのを見て、クラリスは初めて、この娘のほうが自分よりずっと怖かったのだと気づいた。リタは馬車から一歩も出ていない。何が起きているのか、音だけを聞いて座っていたのだ。


「リタ。ありがとう、いてくれて助かった」

顔を上げたリタの目に涙が盛り上がり、それから彼女は下を向いて、乱暴に袖で拭った。



やがて列が動き出した。窓の外を、アルダーンの騎士が一騎、ゆっくりと通り過ぎていく。ガルムが転んだところへ駆け込んできた二人のうちの、若いほうだった。頬に泥がついたままになっている。彼はしばらく馬を並べたまま窓のほうを見ていて、何か言いたそうな顔をしていたが、結局は何も言わずに前へ行ってしまった。

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