空の影
ジルヴェスターが発ってから、城は静かになった。
二百騎がいなくなるというのは、想像していたよりずっと大きな変化だった。中庭から訓練の音が消え、廊下から甲冑の音が消え、食堂が急に広くなった。残ったのは、留守を守る五十人ほどの兵と、非番の若い騎士、それに城で働く者たちだけである。
書庫だけは、何も変わらなかった。
「ルークは、行かなくてよかったんですか」
三日目に、クラリスはようやくそれを訊いた。ずっと不思議だったのだ。あれだけ強いと聞いた男が、なぜ書庫で寝ているのか。
ルークは長椅子から半分だけ顔を上げた。
「行きたくないので行きませんでした、と言いたいところですが」
横目でクラリスを見ながら続ける
「残されたんですよ。城の守りに」
彼は面倒くさそうに身を起こした。
「城を空にはできないでしょう。まさに今深窓の姫様もいるわけですから。王が二百騎を連れて出るとき、誰かひとり、まともに戦える者を残しておかないと、留守が危うい。その役です」
「まともに戦える人が、ルークだけ?」
「奥様は僕のことを外套作りのプロとでも思っているのかもしれませんが、陛下とヴィムを別にすれば、この城でいちばん広く守れるのは僕です。」
言い方はいつものだるさだったが、クラリスは少し見直した。
行きたくないから残ったのではなかった。だから彼は、掃討のことも、城の守りのことも、驚くほどよく知っている。だるいだるいと言いながら、この男はたぶん、自分の役目を一度も間違えたことがない。
異変は、七日目の午後に起きた。
その日、クラリスは書庫の窓辺で、暖房具の改良版を書いていた。
ルークは、いつもの長椅子で寝ていた。
最初に気づいたのは、光だった。
窓の外が、ふっと翳った。雲かと思って顔を上げると、雲ではなかった。何か大きなものが、太陽の前を横切ったのだ。
次に、音が来た。
空気を叩くような、重い羽音。地面ではなく、上から降ってくる音だった。
クラリスが窓に張りつくのと、鐘が鳴り出すのが同時だった。日没の鐘でも、交代の鐘でもない。速く、激しく、途切れなく打ち鳴らされる、聞いたことのない鳴り方だった。
「——ワイバーンだ!」
中庭のどこかで、誰かが叫んだ。
見上げると、城の上空を、巨大な影が旋回していた。翼を広げれば、馬車が二台は並ぶ。灰色の鱗に覆われた胴、長い首、鉤爪。それが、ゆっくりと高度を下げてくる。狙いを定めるように、旋回しながら。
「ルーク!」
振り返ると、ルークはもう長椅子にいなかった。
いつのまに動いたのか、彼は書庫の窓を大きく開け放って、外を見上げていた。眠そうな目が、跡形もなく消えている。
「奥様。ここを動かないで」
「あれ、掃討で減らしてる魔獣じゃ」
「ガルムとは違います。あれは、めったに里に下りてこない。……なぜ今、こんなところに」
言い終わらないうちに、ワイバーンが翼を畳んだ。
落ちるように、中庭へ突っ込んでくる。
そのときルークが動いた。
彼が片手を上げると、空気が鳴った。クラリスの見たことのない規模だった。中庭の全体——兵舎も、井戸も、逃げ惑う者たちも、そのすべてを覆うように、うっすらと光る膜が、一息に立ち上がった。
ワイバーンの爪が、その膜に激突した。
轟音がした。膜が大きくたわみ、光が渦を巻いた。魔獣の巨体が弾かれ、中庭の石畳に叩きつけられる。
クラリスは、息を呑んだまま動けなかった。
シールドだった。ただのシールドだ。原理は、彼女が峠でガルムの脚を止めたのと、まったく同じもの。けれど、規模がまるで違う。あの膜は、中庭ぜんぶを覆っている。数十人を、建物を、一息に。それを、あの男は、ため息ひとつで立ち上げた。
——桁が、違う。
魔法量が桁違いだと聞いてはいた。展開が速いとも。けれど、言葉で聞くのと、目で見るのとでは、まるで違った。彼女がどれだけ式を削っても、絶対に届かない領域が、そこにあった。
ワイバーンはシールドが通らないとなると一度上に羽ばたき旋回し機会を伺いはじめた。ルークの様子をみると、ルークの額に、汗が浮いていた。
「これだけの範囲だと、そう長くは張れません。誰か、あれにとどめを刺せる者が要る。……いないんですよ、今。強いのは、みんな掃討です」
その言葉のとおりだった。
膜の内側で、残った騎士たちがワイバーンに斬りかかっていた。だが刃が通らない。そもそもすぐ高く飛んでしまうし鱗が硬い。ニクラスがタイミングをみて果敢に脇腹へ剣を入れたが、弾かれて後ろへ飛ばされた。前衛の強い騎士は、ひとりもいない。掃討に出払っている。残っているのは、若手と、留守番の兵だけだった。
ワイバーンが、また翼を広げた。
シールドの膜が、内側から突き上げられて、大きく歪む。ルークの息が、荒くなっていた。
わたしにも、何かできないか。
クラリスは、無意識に手を上げかけた。何ができるわけでもない。あの魔獣を止めるだけの力は、自分にはない。それでも、何かを——
「動かないでください」
ルークが、汗を流しながら、それでもはっきりと言った。
「あなたが出ても、死ぬだけです。あなたの仕事は、ここじゃない」
クラリスは、上げかけた手を握りしめた。
悔しかった。今日ほど、自分の魔法量を悔しいと思ったことはなかった。ルークが命がけで膜を張り、若い騎士たちが弾かれながら斬りかかっているのに、自分は窓辺で見ていることしかできない。
膜が、また歪んだ。
ルークの膝が、わずかに折れた。
そのときだった。
門のほうから、地響きが来た。
蹄の音だった。それも、大量の。
クラリスが振り向くより早く、中庭の門が開いた。二百騎が、雪崩れ込んでくる。掃討を終えて、たまたま予定より早く戻ってきたのだ。
その先頭に、ジルヴェスターがいた。
彼は馬を止めなかった。門を抜けた勢いのまま、まっすぐワイバーンへ向かって駆ける。甲冑は返り血と泥にまみれ、マントが千切れかけている。何日も戦い続けてきた姿だった。
ワイバーンが、新たな敵に気づいて向き直る。
その首が、こちらを向いた瞬間。
ジルヴェスターが、馬上で剣を抜いた。
刃に、白い光が集まった。
それは、騎士たちが峠で使っていた、あのうっすらとした光ではなかった。もっと濃く、もっと太く、剣の全体が白熱するように輝いた。彼がそれを、振り下ろす。
光が、剣を離れて飛んだ。
一条の白い光が、中庭を横切り、空中にいるワイバーンの首の付け根を撃った。
轟音。閃光。クラリスは思わず目を庇った。
次に見たとき、ワイバーンは崩れ落ちていた。
首の付け根から上が、ごっそりと消し飛んでいた。巨体が空から落ち石畳の上に倒れ、地面が揺れる。灰色の鱗が、ばらばらと落ちてくる。それきり、その魔獣は二度と動かなかった。
中庭が、静まり返った。
ルークが、膜を解いた。張りつめていた光の膜が、ふっと消える。彼はその場に片膝をつき、荒い息をついていた。
クラリスは、窓辺で立ち尽くしていた。
一撃だった。
遠くから、馬の上から、たった一振りで。あの巨大な魔獣を。ルークが命がけで数十分守り、若い騎士たちが総がかりでも傷ひとつ負わせられなかった相手を、あの人は、駆け込んできた勢いのまま、一撃で。
これがアルダーンの王か、と彼女はもう一度思った。出立の朝に思ったのと同じ言葉を、今度はまったく違う重さで。
馬を下りたジルヴェスターが、崩れたワイバーンを一瞥し、それから、すぐに怪我人救助の指示を出す。
胸のあたりが、まだ激しく鳴っていた。それが、ワイバーンの恐怖のせいなのか、ルークのシールドへの感動のせいなのか、それとも、あの一撃なのか自分でも、うまく分けられなかった。
「……奥様」
足元で、ルークが息を切らしながら言った。
「お怪我はありませんね?」
「はい。ルークこそ大丈夫?」
「疲れました。当分、働きたくない」
彼はそう言って、床に大の字になった。
その、いつもどおりの軽口に、クラリスはようやく、詰めていた息を吐いた。吐いてから、自分の手が、まだ震えているのに気づいた。
わたしも、もっと、何かしたい。
峠のときは、それでよかった。窓から小さなシールドを出して、三秒を稼ぐ。それが自分にできる精一杯だと思っていたし、実際そうだった。けれど、今日、ルークの膜を見て、ジルヴェスターの一撃を見て、思ってしまったのだ。
もっと、届きたい。
魔法量では、一生あの二人に届かない。それはわかっている。今日、いやというほどわかった。
でも、届き方は、力の大きさだけではないはずだ。
クラリスは、床に転がったルークを見下ろし、それから、書きかけの暖房具の紙に目をやった。
考えることが、また増えた。




