できること
ワイバーンが崩れ落ちてから、中庭はしばらく騒然としていた。
倒れた騎士が、数えて七人。ニクラスもそのひとりで、脇腹から胸にかけて鎧ごと爪で裂かれ、石畳の上で丸くなっていた。ほかにも、逃げ遅れて崩れた壁の下敷きになりかけた者、掃討から戻ったばかりの騎士たちも、幾人かは負傷していた。
城の医師は二人しかいなかった。その二人が、いちばん重い者から順に手を回していく。手が足りていない。次々に救助場所に運ばれたが半分以上の人が、放置され寝かされているだけだ。
クラリスは、気づいたときには中庭へ下りていた。王妃様!と誰かが呼んでいたが聞こえないふりをした。
とはいえ、彼女にできることは、ほとんどなかった。回復の魔法は、弱いものでも数人分しかかけれない。いちばん深い傷にひとつ、ふたつ通したところで、もう指先が冷たくなった。
王妃とは気付かない医師が侍女かと思ったのか、薬を塗って包帯を巻くよう指示してくる。クラリスは素直に従い、医師がやっていることをそのまま真似た。血を拭き、薬を塗り、布を巻く。強く巻きすぎて若い兵に痛いと言われ、緩めて巻き直した。次の人では、少しうまくいった。
うまくいったのか不安に思いつつ隣を見て、手が止まった。
魔法師が二人、いつのまにか中庭に来ていた。ルークの下で働く者たちだった。片方は痩せた青年、もう片方はまだ少年に近い。二人とも、負傷者の傍らに膝をつき、掌を傷にかざしていた。
淡い光が灯る。傷が、塞がっていく。
彼らの回復魔法は、クラリスのものより、ずっと保った。深い傷をひとつ塞いでも、まだ次に回せる。二人で回していけば、医師の手が届かないところを、どんどん埋めていける。血が止まり、痛みが引き、うめき声が静かになっていく。
クラリスは、血のついた布を持ったまま、しばらくそれを見ていた。
——魔法量がもっとあったらいいのに。
ルークのシールドを見たとき、感動すると共に無力さを感じた。それでも、目の前で、自分より若い魔法師が、自分にはできないことを次々にやっていくのを見るのは、また別のことだった。今まで、他人のために何かをしたいと思うことはあまりなかったから、自分の能力が低くてもそれを悔しんだりより多くを望むことはなかった。むしろ甘やかされ、私は興味のある魔法式を趣味のように作っていただけだ。
手が止まっていたことにふと気づき、慌てて薬をぬり包帯を巻いていく。
ルークも、途中まで手当てに加わっていた。
その背中に、駆け足の音が近づいた。
「ルーク殿。ここでしたか。陛下がお呼びです、すぐに」
ラウレンツだった。掃討から戻ったばかりの、まだ甲冑姿である。血と泥にまみれていたが、足取りはしっかりしていた。
「見てのとおり、手が離せません」
「軍議です」
ルークはため息をつき、彼はちらりと負傷者を見て、傍らの若い魔法師に「あとは頼む」と短く言い、立ち上がった。だるそうな表情が、少しだけ消えていた。
ルークは何も言わずに、ラウレンツについて歩き出した。去り際、彼は一度だけクラリスのほうを振り返った。何か言いたそうな顔だったが、結局は何も言わずに行ってしまった。
その夜、クラリスは部屋に薬草の本を持ち込んだ。
医師のひとりに頼み込んで、借りたものだった。傷の手当ての心得が、絵入りで載っている。式典書でも魔法書でもない、彼女には縁のなかった種類の本だった。ただ、今日、それがいちばん役に立つ知識だと、身にしみてわかった。
回復魔法が使えないなら、使えないなりに、できることを増やせばいいはずだ。
夜が更けても、クラリスは頁をめくり続けた。途中で、扉のほうを何度か見た。
ジルヴェスターは、戻ってこなかった。
軍議が長引いているのだろう。
眠くなって、それでも一章ぶん読み終えてから、クラリスは灯りを落とした。彼が今どこにいるのか、何を話しているのか、自分にはわからなかった。軍議の場に、王妃が呼ばれることはない。政治のことは、そもそも彼女の役目ではなかった。
目が覚めたとき、隣に、わずかなへこみがあった。
枕が、片方だけ沈んでいる。シーツに、かすかに人のいた跡が残っていた。触れると、もう冷たい。夜のうちに戻って、朝には出ていったのだ。起こさないように、静かに。
起こしてくれればいいのにとクラリスは思い、自分が案外ジルヴェスターに親しみを感じていることに気づく。ただ、すぐそばにいるのに、自分の手が届いているのかどうか、よくわからない。シェルナでも政治のことなど相談されたこともなくずっと蚊帳の外だったのに、ここにきてからはなぜか強く孤独感を感じた。
クラリスは寝台から出て、顔を洗い、昨日の怪我人たちを見にいくために立ち上がった。




