<第二部>通常
第二部スタート!
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宴は、一夜かぎりだった。
広間には灯りがともり、樽が開けられ、西の砦の武勇伝が歌になった。
クラリスもちびちびとワインを飲んだ。ハーゲンには「奥様も飲める口ですね」と言われ、ディートリヒはワインが空くとすぐに杯に注いだが、途中でジルヴェスターに止められた。
けれど三日三晩、というわけにはいかなかった。杯を掲げるジルヴェスターの背後を、伝令が何度も横切った。ハーゲンは宴の途中で二度席を立った。
帝国は、戦が終わったあとも沈黙を続けていた。使者も、抗議も、捕虜の返還要求すらも寄越さない。それがかえって、不気味だった。
クラリスは、鳥の声で目を覚ました。
見慣れた天蓋。見慣れた朝の光の角度。隣に手を伸ばすと、敷布はもう冷たかった。
——いない。
夜明け前に起きて、執務室に消えている。つまり、いつも通りだ。少しだけ寂しくて、でも、この「いつも通り」ごと帰ってきたのだと思うと、なぜだか笑えてくる。
「……よし」
腕を上に伸ばすと、関節がぱきぱき鳴った。
それから、枕元に手を伸ばす。寝る前に読んでいた帳面が、開いたまま伏せてあった。沼の式の写し。寝台の上にごろりと寝転がったまま、頁をめくる。
安全弁を三つ消した線。書き足した境界の節。あの晩は無我夢中で組んだけれど、いま冷静に読み返すと粗が見える。それでも、あの短時間ではよくできたと、にやりと笑う。境界の閉じ方も、もっと短く書けたはずだ。次に組むなら——。
うつ伏せのまま読みふけっていると、リタが扉を叩いて入ってきた。クラリスは自然と立たされ、帳面を読んだまま立っていると、いつの間にか着替えが終わっている。
いつもが、戻ってきた。
部屋に運ばれた朝食をてきぱきとお腹に入れると、クラリスは早速廊下に出て、書庫へ向かった。
重い扉を押し開けると、埃と古い紙の、あの落ち着く匂いがした。
ここを出て、西へ行って、戦があって。半月ほどのはずなのに、一年ぶりのように懐かしかった。
背伸びをして奥をのぞき込むと、いつものようにルークがいた。
だが、突っ伏して寝ている——のではなく、起きていた。頬杖をついて、扉のほうを見ていた。机の上には、何か小瓶が散らかっている。
「ルーク? 起きてるんですか?朝なのに?」
「失礼な。僕だって朝から起きている日くらいあります」
「見たことなかったので…」
「奥様が今日あたり来ると思ったので。それに」
彼は、散らかった机の上を顎で示した。
「見ての通り、寝ている暇がないんですよ。……砦の増強というのは、石垣を積むだけじゃありませんから」
近寄って覗き込むと、机の上は、薬草と、乳鉢と、色ごとに分けられた粉と、栓をした小瓶の列だった。クラリスはこれは書庫でやるべき作業なのかと疑問が浮かび顔をしかめる。
「これは……?」
「回復薬の増産です。各砦に配る分。……戦のあと、備蓄がほとんど空になりましたから」
ルークは特に気にしていないようで、小瓶のひとつを摘まんで、光にかざした。
「回復魔法の使い手は、国中かき集めても十人といません。僕が全部の砦に立つわけにもいかないので」
ルークが薬草学にも相当な知識を持っていることは以前から知っていたが、改めてその知識量を目にすると、少し嫉妬心がわいた。
「……ルークが調合しているんですか? 全部?」
「配合を決めるところまでが僕です。あとは薬師たちに写させます。それから傷薬、解熱、止血——ああ、それと、これ」
彼は、別の小瓶を示した。中で、澄んだ液体がとろりと揺れた。
「マナ切れ用です。奥様のような、無茶をする方のための」
「……わたし?」
「四枚ぶん流して倒れた方が、この城にいると聞いたので」
砦でのことを思い出し、あれは背中を打ったのだと言おうとしたが、半分は正しかったので、開きかけた口を閉じた。
ルークは眠たげな目のまま、乳鉢の縁を指でとんとんと叩いた。
「ほかにも、回復用の魔石の備蓄割り当て、各砦の魔法師の再配置、討伐隊の触媒式の補充——全部この半月で、です。このままでは白髪になってしまいます」
クラリスは、目線をあげ、ちらりとルークの髪を見た。元々銀色で、白髪と変わらないじゃないか——と思ったが、どうやら表情で伝わってしまったらしい。ルークが、じとっとした目でこちらを見ていた。
だが、口調は怠惰そのものなのに、机の上の仕事は膨大で、しかもどれも精密だった。この人は、こういう人だった。文句を言いながら、誰より速く、誰より正確にやる。
「宴では、まったく話せませんでしたから」
ルークは、小瓶の列を脇へ押しやった。
「陛下がずーっと隣に張り付いておられて。あれでは誰も近づけません。ディートリヒ様なんて、輿入れの頃は『シェルナの姫など』というお顔をなさっていたのに、昨夜は奥様の話になった途端、すっかりデレデレしておられましたよ」
「デ、デレデレはしてないと思いますけど」
「していました。この目で見ました。あの氷の宰相殿が、です。西の砦の話を三回もしていました。三回です」
クラリスは軽く肩をすくめ、それから、持ってきた包みを差し出した。
空になった、五つの石の袋だった。
「これ……お返しします」
ルークは袋を受け取り、中を覗き、それからクラリスを怪訝な顔で見た。
「え? また入れろってことですか?」
「ちがいます!」
彼は袋を机に置いて、珍しく、少しだけ姿勢を正した。
「お役に立てて、よかったです。奥様の才能には、毎回驚かされますね。古代式を読む能力、そしてそこからコンセプトを見つけ改良する能力。なかなか得られるものではありません。」
改めてルークに言われると、心に暖かいものが広がる。
ルークは、机の上の小瓶を丁寧に端によせると、場所を空けた。
「式、見せてください。灌漑の式をどう逆さにしたのか。伝聞で聞くのは性に合いません」
クラリスは心を踊らせながら、急いで帳面を開く。ルークは覗き込み、指で式をなぞりながら、読む速さで独り言を落としていく。
「第二節を丸ごと抜いて……安全弁は三つとも外し……ああ、境界は水はけの逆組みか。展開を内向きに返して……ふうん。深さの指定はここ。膝。荷車の車輪も計算に入っていますね、これ」
「入れました。梯子と、荷車と、人の足と」
ルークは帳面から顔を上げた。眠たげな目が、このときだけ、技師の目になっていた。
ルークが魔法式を素早く理解していくのを見ると、尊敬とともに、ちょっと悔しい気持ちもした。けれどそれ以上に——色々と真面目にアドバイスをくれるルークに親しみを感じる。
「……第四節、負担が右の石に偏っています。だから五日しか保たない。均せば七日はいけた」
「っ、やっぱり? 今朝、読み返していて気づいたんです。境界の閉じも、あと二画は短く——」
「三画ですね。ここの重複が要らない」
「あ……ほんとですね」
ひとしきり式を検分したあと、クラリスは、ずっと胸にあったことを口にした。
「ねえ、ルーク。会議で、聖騎士団長が言っていたんです。焼印は——魔術だ、って」




