攻防戦4
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横腹を割られた帝国軍は、もう軍の形をしていなかった。
角笛が鳴った。
誰も、戻らなかった。
太鼓が何度も恐怖を煽るように鳴らされたが、敗北が見えている帝国兵が再度動き出す気配はない。
朝には、あの音ひとつで潰走を止めてみせた軍が、いまは音に応える足を持っていなかった。二日前に高原を渡ってきた兵たちに、三度目に立ち直る力は残っていなかった。
アルダーンの八百と、リアンツァの五百が、両側から静かに押していく。
剣戟の音が、まばらになっていく。
かわりに、別の音が増えていった。金属が地面に落ちる音だった。ひとつ、またひとつ。挟まれた帝国兵が、武器を捨てはじめたのだ。膝をつく者。両手を上げる者。座り込んだまま、動かなくなる者。
夕日の最後の光の中で、戦場が、ゆっくりと終わっていく。
それでも戦い続ける一団だけが、敵将の旗の周りに、小さく、固く、縮んでいった。
ジルヴェスターと数十人の騎士は黒馬を走らせ、その一点へ向かっていく。
クラリスは、狭間の縁を握りしめた。
——終わる。
もうすぐ終わる。あの人が生きたまま、この戦いが終わる。指の付け根の痛みも、背中の軋みも、もう感じなかった。安堵が、胸の奥からゆっくりと広がっていく。
目だけが、あの黒い姿を追っていた。
最後の人垣は、もう三十人もいなかった。
ジルヴェスターが、騎馬のまま踏み込んでいく。白い閃光が二度走って、垣が割れた。
他の騎士達も閃光を走らさながらものすごい速さで斬り倒していく。
割れた垣の奥に、旗を背にして立つ男がいた。
馬はもうない。護衛も散った。それでも剣を杖のように突いて、立っていた。ここからでは顔は見えない。ただ、その立ち方だけで、もう戦う力が残っていないことはわかった。
わかっていて、逃げも、跪きもしなかった。
ジルヴェスターの剣が、馬上で高く上がった。
夕日の最後の赤を受けて、刃が燃えるように光った。
クラリスは、息を止めた。
刃が、落ちる。
——その刃が、銀色の剣に弾かれた。
きん、と。
高く澄んだ金属の音が、夕暮れの丘の上まで、まっすぐに届いた。
クラリスは、瞬きをした。
ジルヴェスターと敵将のあいだに、白いものが割り込んでいた。
黒馬に乗った、白銀の甲冑。
そういえば——戦場の端を、白い一団が横切っていくのが、視界の隅に映っていた気がする。ただ、目はずっとジルヴェスターだけを追っていて、気に留めなかった。降伏の使者か、どこかの伝令だろうと、頭が勝手に片づけていた。
その白が、いま、夫の剣を受け止めている。
夕日の赤に染まる戦場で、そこだけが染まっていなかった。血の色も、土の色も、夕日の色さえはじいて、ただ白いままそこにある。見ているだけで、目の奥がひやりとするような白だった。
そして、一騎ではなかった。
白銀の甲冑が、二十騎ほど。ジルヴェスターと敵将を、緩く、大きく、取り囲んでいく。輪になって、止まる。全員が優雅な長い剣を構えていた。
戦場から、音が消えていた。
さっきまで武器を捨てていた帝国兵も、押していた両軍の兵も、全員が動きを止めて、その白い輪を見ていた。何千人もいる平原から、人の声がひとつも上がらない。馬の鼻息と、風の音だけが残った。
「……なんだ、あれは」
隣で、ラウレンツが掠れた声で言った。
眉間に、深い皺が刻まれている。
この人が知らないものが、この大陸にあるのか——そう思ったとき、塔の上から見張りの声が降ってきた。
「白い甲冑です! 二十騎——旗は、ありません!」
西の狭間に取りついていた年かさの兵が、振り返って叫び返した。
「旗なんぞ要るか、あれは……!」
その顔から、血の気が引いていた。
「聖騎士だ……アウレリアの、聖騎士だ……!」
その言葉が、胸壁の上を凍らせた。
「聖騎士? ……実在したのか」
「八百年、国から出たことがないはずだ」
「なぜ、こんな西の果てに」
誰も答えられない問いだけが、囁き声で壁の上を這っていく。
クラリスは、戦場の一点から目を離せなかった。
聖騎士は前に使者が内密に訪れた時に見た以来だ。
弾かれたまま止まっている、ジルヴェスターの剣。それを弾いた銀の剣。向かい合う黒と白。その周りで、誰もが動きを失っている。
聖騎士。
書庫の古い頁の中の言葉だった。聖女の血を守る、大陸最強の剣。御伽噺と歴史の境目にいる存在。あの冷たい返書を寄越した国が、八百年動かさなかった剣が——いま、夫の刃を受け止めている。




