攻防戦3
「——南東! 南東に土煙!」
塔の上から降ってきた声に、胸壁の全員が振り返った。
南東の街道の果て。夕日を横から受けた平原の上に、新しい土煙が細く、長く、立ち上っていた。
騎馬の列だった。数は、わからない。旗は、逆光でまだ黒い。
「……援軍か?」
「城からはもう来ている。あれ以上の兵は、うちには」
「では、どこの」
誰も、答えられなかった。
クラリスは、狭間の縁を握った。
味方がくることなんてあり得るのか?でも、もし帝国の後詰めなら。朝から戦い続けた八百に、新手を受ける力は残っていない。
祈るような沈黙の中で、土煙だけが近づいてくる。
夕日が、雲の切れ間から最後の光を落とした。
その光が、先頭の旗を撫でた。
深紅だった。
深紅の地に——銀の、狼。
「リアンツァだ」
見張りの声が、裏返った。
「リアンツァの旗だ!」
胸壁の上が、ざわめいた。歓声ではなかった。もっと硬い、ざらついたざわめきだった。
「なんで……なんでリアンツァが」
「帝国と示し合わせて来たのか」
「挟み撃ちだ。弱ったところを、まとめて刈る気だ——」
八百年、あの旗は敵だった。この国の誰もが、あの旗を憎むことを覚えて育った。祖父を殺され、友を殺され、それでも祭りのたびに川を挟んで向き合ってきた、あの旗。
それが、五百騎を連れて、まっすぐこちらの戦場へ駆けてくる。
クラリスは、ラウレンツを見た。
彼は狭間の外を睨んだまま、動かなかった。目が大きく見開かれ、顔には苦痛に近いものが浮かんでいる。
「指揮官——」
「同盟は、生きているはずだ」
彼は、自分に言い聞かせるように言った。
「生きているはずだが……確かめる術が、ない」
その一言が、胸壁の上の全員の心臓を掴んでいた。
同盟。書面のない、口約束と川の水一杯の同盟。八百年の憎しみの上に、たった一度の会談で載せた、薄い薄い約束。
それが本物だったのかどうか、答えは、あの五百騎の向かう先だけが知っている。
戦場でも、同じことが起きているのが見えた。
アルダーンの隊列に、動揺が走る。後衛が振り返り、隊列の形が乱れかける。あの黒い騎影さえ、一度、馬首をそちらへ向けて止まった。剣を下げないまま、新手の旗を見据えている。
丘の全部が、息を止めていた。
五百騎は、速度を落とさなかった。
アルダーンの戦線へ向かって——来ない。
手前で、大きく弧を描いた。アルダーンの隊列を避けるように迂回して、そのまま、そのまま——
帝国軍の横腹に、突っ込んだ。
音が、丘まで届いた。
丸太で壁を打ち抜くような、鈍く重い音。立て直したはずの帝国の隊列が、横から割られていく。二日の攻城と朝からの戦いで疲れ切った陣に、無傷の五百騎。支えられるはずがなかった。
胸壁の上は、静まり返っていた。
「……味方だ」
若い兵が、呆然と言った。
「リアンツァが……援護に、来た」
誰も、すぐには声を上げられなかった。
喜んでいいのか。この目を信じていいのか。八百年ぶんの何かが、まだ声の出し方を思い出せずにいた。隣の兵と顔を見合わせ、また戦場を見て、また顔を見合わせる。
最初に叫んだのが誰だったのかは、わからない。
ただ、ひとつ声が上がると、堰が切れた。
歓声とも悲鳴ともつかない声が、壁の上を走った。兜を打ち鳴らす者。声にならない声で吠える者。年かさの兵がひとり、狭間に額を当てたまま、肩を震わせていた。
「リアンツァが……あのリアンツァが、来やがった……!」
クラリスは、狭間に額を寄せるようにして、五百騎を目で追った。
先頭を、譲らない一騎がいる。
距離があって、顔はわからない。それでも、その一騎だけ、剣の振り方が違った。会ったことはない。なのに、あの位置を走る人間がだれなのか、疑う気になれなかった。
そして、その斜め後ろ。
小柄な騎影に、見覚えがあった。
「……ユアン」
思わず、名前が漏れた。
兄の従者。リアンツァに潜り続けていた、あのよく喋る愉快な青年が、リアンツァの軍の中にいて、目を光らせている。
生きていた。生きて、ここにいた。
視界が滲みかけて、慌てて瞬きをした。
「ラウレンツ指揮官」
背後で、ミラの声がした。疑念に満ちた声だった。
「……リアンツァが援軍に来るには、早すぎませんか」
振り返ると、ラウレンツは狭間の外を睨んだまま、眉間に深い皺を刻んでいた。
「……そうだな。早すぎる」
「報せが発ったのは、二日前の夜です。早馬が城に着くのが翌朝。城からリアンツァへ回して、谷の中継を経て、向こうの王都に届くのが——どう急いでも三日。そこから兵を集めて、北東の峠を抜けて、この西の端まで国を横断して……」
ミラは指を折って数え、首を振った。
「あと五日は、かかるはずです」
「ああ」
ラウレンツは、じっと何かを考えていた。
「報せを受けてから出たのでは、絶対に間に合わん距離だ。……つまり、あの男は」
彼は、そこで言葉を切った。
「報せの前から、動いていたことになる」
誰も、何も言わなかった。
報せの前から動いていた、ということの意味を、それぞれが考えていた。帝国が動くと、あの王太子は読んでいたのか。読んで、王の裁可も待たずに、五百を連れて国境を越えたのか。
八百年、開かなかった峠を。
「……まあ」
ラウレンツが、ふっと息を吐いた。
眉間の皺が、ゆっくりとほどけていく。
「詮索はあとだ。本人に訊けばいい。……いずれにせよ」
彼は、夕日の中で帝国軍を割っていく深紅の旗を見て、二日ぶんの疲れを全部乗せた声で言った。
「——助かった」




