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攻防戦2

誰もが、東を見ていた。


朝日を背負った八百騎が、街道を離れ、扇のように広がりながら速度を上げていく。蹄の音はまだ遠い。遠いのに、地面がもう震えていた。石の壁に手を置くと、その震えが掌に伝わってくる。


「……陛下だ」


誰かが、呟いた。


「陛下だ! 陛下が来られた!」


次の瞬間、胸壁が爆発した。


歓声だった。昨夜からの疲れも、恐怖も、全部まとめて声に変わった。兜を脱いで振り回す者。狭間から身を乗り出して叫ぶ者。隣の兵と抱き合う者。若い兵がひとり、泣きながら笑っていた。


「見ろ、あの数! 八百はいるぞ!」


「間に合った……間に合ったんだ……」


ラウレンツが、塔の下で拳を握りしめるのが見えた。彼は叫ばなかった。ただ、目を閉じて、一度だけ深く息を吐いた。


クラリスは、声が出なかった。


かわりに、視界が滲んだ。慌てて袖で拭った。いま見えなくなったら、あの人を見失う。


八百騎は、砦へは向かわなかった。


丘の東側を、大きく迂回していく。朝日を背にしたまま、敵陣の裏側へ。騎馬の列が丘の稜線の向こうへ、一列ずつ呑まれていき、黒い甲冑の先頭が、最後に稜線へ消えた。


「なぜ、こちらへ来ないのです」


思わず訊くと、ミラが狭間から目を離さずに答えた。


「敵の陣は、この砦に向かって組まれております。矢も、櫓も、兵の顔も、全部こちら向きです。……つまり、背中はがら空きです。陛下は、そこを衝かれるおつもりかと」


その言葉が終わらないうちに、丘の向こうから爆破音が鳴り響いた。



最初は、雷かと思った。


八百頭ぶんの蹄が、いっせいに大地を叩く音。それが敵陣の裏手で膨れ上がり、次の瞬間、何かが砕ける音に変わった。木の柵が折れる音。天幕の支柱が倒れる音。そして、何百人ぶんかの悲鳴が、ひとつの大きなうねりになって、丘を越えて届いた。


砦から見える範囲でも、敵陣の様子が一変した。


こちらに向いて整列していた歩兵の隊列が、うしろを振り返る。振り返った列から、形が崩れていく。杭を引き抜かれた馬たちが、押さえる者もないまま、陣の中を走り回る。火のついた天幕から黒い煙が立ち上り、風に流されて、敵陣の半分を覆った。


その煙を、割って出てくるものがあった。


黒い馬。黒い甲冑。


アルダーンの騎士たちが白い閃光を放ちながら敵の兵を薙ぎ倒していく。ただ先頭を走る一騎だけ、閃光の速さと輝きが違った。


右で剣が閃く。左で閃く。振り向きざまに、もう一度。


一振りごとに、人垣に穴が開いた。開いた穴へ後続の騎馬が流れ込み、穴が裂け目になり、裂け目が道になる。黒い一騎は、その道のいちばん先を、止まらずに走り続けていた。


まるで、鎌で麦を刈っていくようだった。


「……あれが、陛下」


隣の若い兵が、呆けたように呟いた。


「話には聞いてたが……嘘だろ、あれ」


クラリスは、狭間の縁を握りしめたまま、その黒い姿から目を離せなかった。


強い。わかっていた。峠でワイバーンを斬るのも見た。それでも、これは初めて見る姿だった。二千の軍の真ん中を、たった一騎で裂いていく。神話の頁から抜け出してきたような、と思ってから、違う、と思った。


神話なら、傷つかない。


あの人は、人だ。

そう思うと口の中がカラカラに乾いてくる。

目の前で繰り広げられる熾烈な戦いを、息も忘れ呆然と見つめる。


しばらくすると戦況が、明らかになってきた。


敵陣の端から、兵が逃げはじめた。武器を投げ捨てて走り、走った先の沼に膝まで沈んで動けなくなる。逃げ場を失った一団が、丘の斜面をぐるぐると回っていた。


「勝てる」


若い兵が言った。


「勝てるぞ、これは」


クラリスも、一瞬、そう思った。




そのときだった。


敵陣の奥——崩れていない、いちばん深いところから、角笛が鳴った。


短く、三度。


その音が渡った途端、信じられないものを見た。


逃げていた兵たちが、足を止めたのだ。


一人、また一人と立ち止まり、向き直り、駆け戻っていく。崩れて散らばっていた群れが、太鼓の拍子に合わせて、恐怖に掻き立てられるように、列に戻っていく。乱れた線が、見ているあいだに編み直され、槍の穂先が、ふたたび同じ方向へ揃った。


数百は崩したはずだった。それでも、立て直された陣は、まだ厚かった。


「……止めやがった」


若い兵の声から、熱が消えていた。


「あの状態から止めるか、普通。……敵の将、只者じゃないぞ」


崩れたのは三分の一。残りはまだ千を超えている。こちらは八百。


朝日の奇襲は、終わったのだ。

ここからは数と数の戦いになるのか、クラリスにはもはやどちらが優先なのか分からなかった。


戦場は、沼の外の平地に移っていた。色の塊と塊が、ぶつかり、離れ、またぶつかる。距離があるぶん、細部は見えないが、クラリスはジルヴェスターだけを目で追った。


「ラウレンツ様」


ミラが、押し殺した声で言った。


「こちらから、打って出ることは」


「できん」


ラウレンツの答えは、短かった。


「我々が門を開けて出れば、この砦が空く。地下には二百の民がいる。……万一、出た隙に取りつかれたら、守るものごと全部失う。籠城とはそういうものだ。この壁の内側を守り切ることが、我々の戦だ」




日が、傾きはじめた。


そのころ戦況は、素人の目にもわかるほど少しずつ悪くなって行っていた。


ぶつかり合う音が、少しずつ、丘の裾へ近づいてくる。アルダーンの青い旗が、朝より減っている。戦線そのものが、じりじりと、砦のほうへ押し戻されてきているのだ。




八百の壁に開きかける穴を、あの人がひとりで、端から塞いで回っている。


「どうして」


声が、勝手に漏れた。


「どうして、あの人ばかり、いちばん危ないところに」


だが、周りの騎士や兵士をみるとジルヴェスターの強さを信じているのか、心配している様子はない。


閃光が走るたび、クラリスは瞳に苦痛を映して、息を止めた。


光が消えて、次に光るまでの数拍のあいだ、心臓が縮んだ。閃けば、生きている。閃けば、まだ立っている。それだけを頼りに、腫れた手を祈りの形に組んで、握り込んだ。指の付け根が痛んだ。痛みごと、握った。


——お願い。


——怪我をしないで。頼むから、怪我をしないで。


そう祈ってから、自分でもわかっていた。あの光の一回ごとに、あの人は誰かの刃の届く場所にいる。無傷でいられるはずが、ない。



夕日が、地平に近づいていく。


戦場全体が赤く染まって、流れているものが血なのか、日の色なのか、もう見分けがつかなかった。青い旗は、四本になっていた。







そのときだった。


「——南東! 南東に土煙!」


塔の上から、声が降ってきた。


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