攻防戦
だが、歓声は、そう長くは続かなかった。
「西だ! 西に梯子!」
塔の上から、声が落ちてきた。
胸壁の空気が、一瞬で締まった。
クラリスは、狭間から西を見た。
沼の帯に、一箇所だけ、切れ目がある。
五枚目を埋めるはずだった場所。あの角笛で、埋められなかった場所だ。
クラリスは胃の底が冷たくなるのを感じる。
敵は夜通し、泥に沈みながら、そこだけ足が通ることを体で見つけたのだった。何十人を沼に呑まれて、それでも試すのをやめなかった。乾いた地面の細い道を、松明が一列になって駆けてくる。
その列の真ん中に、ひときわ大きな影があった。
担いでいる、というより、群れが運んでいた。二十人がかりの長大な梯子で、横木にはすでに兵が数人、取りついたままぶら下がっている。立てながら登るための、攻城の梯子だった。
「西へ寄れ! 石を回せ!」
ラウレンツの声が飛んだ。兵が走る。石の籠が、手から手へ渡っていく。狭間という狭間に弓兵が張りつき、矢筒が引きずり寄せられた。
「来るぞ! 押し返せ!」
梯子の根元が地に噛み、群れが一斉に押し上げた。
巨大な影が、ゆっくりと起き上がってくる。
壁よりも高い影が、星をひとつずつ消しながら、こちらへ倒れ込んでくる。クラリスは、それが倒れてくる数拍のあいだ、息をすることを忘れていた。
先端が壁の縁に、がん、と当たった。
石の壁が、足の裏まで揺れた。
「落とせ!」
石が落とされる。鈍い音と、短い悲鳴。梯子がわずかに傾ぐ——が、倒れない。根元を、下で十人が支えている。そのあいだにも、横木の影が、ひとつ、またひとつ、上がってくる。速い。立てる前から取りついていたぶん、最初の影が壁の縁に届くまでが、恐ろしく速い。
「火矢! 火矢を集めろ!」
火のついた矢が、一斉に梯子へ突き立った。
生木の梯子は、すぐには燃えなかった。じりじりと、油を塗られた横木だけが燃え、火が骨組みを伝っていく。登っていた影が、火を嫌って止まった。止まったところへ、石が落ちる。
梯子が、燃えながら、ゆっくりと壁を離れていった。
星空を背に、火の柱が斜めに倒れていく。泥の縁に落ちて、水気を吸って、煙だけが残った。
胸壁の上で、誰かが短く息を吐いた。歓声は、もう誰も上げなかった。
「梯子は、あれ一本です」
ミラが、押し殺した声で言った。
「切れ目は狭い。一度に運び込めるのは一本きり。……一箇所に集中できるのは、こちらには幸いです」
幸い、という言葉の使い方が、もう普通ではなかった。
「敵、裏へ回っております!」
別の声が聞こえた。
クラリスの心臓が、跳ねた。裏側——魔法式を組んでいない側だ。板は四枚しかなかった。正面と東と門は覆った。裏は、素の地面のままだ。
「数、二百! 東を巻いています!」
「弓を裏へ十! 塔の火を絶やすな!」
ラウレンツが駆け抜けていく。すれ違いざま、彼はこちらを見た。
「奥様は、隅へ! ミラ、頼む!」
ミラに腕を引かれて、塔の根元の物陰に座らされた。石の壁を背にすると、背中の打ち身がずきりと鳴った。
「ここを動かないでください」
ミラはクラリスが影に入ったのを見届けると、すぐに駆け出していった。
そこからは、空しか見えなかった。
クラリスは、膝を抱えて下を向くと、音だけが鮮明に聞こえてくる。
石の落ちる音。弦の音。梯子が壁に当たる、あの重い音。火矢の走る、風を裂く音。号令と、悲鳴と、区別のつかない声。それが、右から、左から、ときどき裏からも聞こえた。
体は震えていた。恐怖で膝が震えて、抱えた腕の中で、勝手に涙が出てきた。声は出さなかった。拳で拭って、込み上げてくるものを、奥歯で噛んで抑えた。
かわりに、東の空ばかり見ていた。
空は、まだ黒い。
——朝。朝には、来る。
早馬が届いていれば。あの人がすぐに発っていれば。何も起きずに、街道を駆け抜けられていれば。
「いれば」が三つも重なった祈りだと、自分でもわかっていた。それでも、それしか、すがるものがなかった。
どのくらい、そうしていただろう。
音は、止まなかった。静かになったかと思うと、また激しくなり、裏へ回り、正面へ戻った。そのたびに体が硬くなり、緩み、また硬くなった。
ずいぶん長く、寝ていない気がする。
こんな状態でも、瞼が重かった。恐怖と眠気が同じ体の中にあるのが、不思議だった。落ちかけては、石の音で引き戻される。それを何度も繰り返した。
膝を抱えたまま、クラリスはふと、城の寝室を思った。
暖炉の薪が小さく鳴る、あの部屋。十日は長いな、と言った声。あの晩は、十日が長いと思っていた。いまは、朝までが十日より遠く感じる。
音の隙間に、ふと気づいた。
空の暗闇が、薄まっている。
山の稜線が、闇から剥がれはじめていた。藍色。その下に、細い金の線。
夜が、終わろうとしていた。
クラリスは、膝を抱えたまま、その線から目を離せなくなった。金の線は、じれったいほどゆっくりと太くなっていく。世界で自分ひとりだけが、それを見ている気がした。
そのとき。
塔の上の見張りが、何か叫んだ。
言葉になっていなかった。ただ、腕が、東を指していた。
クラリスは立ち上がった。背中の痛みを忘れていた。ミラの制止より早く、狭間に取りついていた。
東の街道に、土煙が上がっていた。
朝日が、ちょうど稜線を越えたところだった。光が、地を這うように斜面を走って、土煙を金色に染めた。
その金の中から、騎馬が現れた。
先頭の一騎が、見えた。
黒い甲冑。逆光で、姿は影になっている。それなのに、誰なのか、疑いもしなかった。体のほうが先にわかった。喉の奥が、勝手に鳴った。
——ジル。
影が、剣を抜いた。
高く掲げられた刃が、昇ったばかりの朝日を受けて、一度、白く燃えた。
そして次の瞬間、刃そのものが光を放った。
触媒式の閃光だった。朝焼けを裂いて、まっすぐに天へ伸びる光の柱。敵にも、味方にも、丘の全部に見える光。
王が、来た。
それだけを告げる光だった。
胸壁の上で、誰かが叫んだ。すぐに全員が叫んでいた。
八百の騎馬が、朝日を背負って、動きはじめた。
大地の音が、変わった。
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