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ニクラスの背中は、思っていたよりずっと広くて、ものすごい速さでかけていく。木々の影が横へ流れていく。夜気が頬を打つ。背負われているのに、まるで自分が飛んでいるようだった。
意識が、途切れそうになる。
そのたびに、背中の痛みが引き戻した。ニクラスの一歩ごとに、打った場所が軋む。痛い。でも、この痛みだけが、いま自分を起こしていてくれる。
後ろで、鬨の声がうねっていた。
角笛。太鼓。二千の人間が、いっせいに動く音。それが、ぐんぐん遠ざかっていくのをぼんやりと聞いていた。
藪の音がして、視界が閉じた。
通路に入ったのだ。
「……もう、大丈夫です。ここまでくれば」
ニクラスが、そっと下ろしてくれた。
石の床に足がついた途端、体じゅうの痛みを一度に感じた。背中。足。腫れた手。壁に手をつかないと、立っていられなかった。
「歩けますか」
「……歩けます」
暗い通路を、少しずつ進んだ。ニクラスが半歩先で、ランプを掲げてくれている。何度も振り返っては、歩幅を合わせてくれた。
「奥様、もう少しです」
その声に、なんとかついて行っていたクラリスは頷く。
頭の上から、音が降ってきていた。
どん、と重いものが壁に当たる音。石の落ちる音。何百人ぶんかの声。通路の天井から、細かい土がぱらぱらと落ちてくる。砦そのものが、微かに揺れていた。
総攻撃が、始まっている。
「ニクラス」
「はい」
「上へ。……砦の上へ、連れていってください」
ニクラスは、一瞬だけためらった。
けれど、何も言わずに頷いた。
階段は、長かった。
一段ごとに背中が痛んで、手すり代わりの壁を掴む指が悲鳴を上げた。それでも登った。上から降ってくる音が、一段ごとに大きくなる。揺れも、大きくなる。
最後の角を曲がったとき——
聞こえてきたのは、悲鳴ではなかった。
歓声だった。
胸壁の上で、兵たちが叫んでいた。狭間から身を乗り出し、拳を突き上げ、隣の者と肩を叩き合っている。火のついた矢が、次々と闇へ放たれていく。その光の筋が、まるで祭りの灯のようだった。
「奥様!」
ミラが駆け寄ってきて、そして、狭間のひとつへ導いた。
「ご覧ください」
外を、見た。
火矢の明かりに照らされて、斜面が見えた。
そこに、敵が沈んでいた。
砦の麓から五十メートルほどの帯の中で、何十人もの兵が、膝まで、腰まで、泥に呑まれて動けなくなっていた。抜こうともがけば、もう片方の足が沈む。担いでいた梯子が、あちこちで泥に倒れ、半ば呑まれて、ただの濡れた木になっている。
暗闇の中、泥が見えなくそのまま進軍したようだった。
後ろから押し寄せた兵が、前の兵に押されて泥に踏み込み、また沈む。誰かが叫んで、隊列が乱れ、下がろうとする者と押す者がぶつかり合っていた。
その動けない敵に、壁の上から火矢が降っていく。
「かなりの人数が、はまっております」
ミラの声が、震えていた。震えているのに、笑っていた。
「梯子は、一本も壁に届いておりません。……一本もです」
クラリスは、狭間の縁を握りしめたまま、その光景を見ていた。
効いた。あの式が、効いている。腫れたこの手で刻んだ五枚が、いま、あの壁の下でこの砦を守っている——その誇らしさと、安堵で、目の奥が熱くなった。
「奥様」
いつのまにか、ラウレンツが隣に立っていた。
一晩でさらにこけた頬のまま、それでも、目だけが強く光っていた。
「この沼は、どれほど保ちますか」
「……五日は」
クラリスは答えた。
「魔力の消費は、できる限り落としてあります。石も、上等なものなので。……五日は、保ちます」
「五日」
ラウレンツは、その数字を噛みしめるように繰り返した。
「援軍は、明日の朝には着きます。……五日あれば、十分すぎる」
彼は、狭間の外へ目を戻した。
「正直に申し上げます。今夜は…だめかと思っておりました」
静かな声だった。
「梯子が十二本。こちらは百五十。三箇所同時に登られたら、おそらく対応が難しかったでしょう。……それが、一本も届かない」
彼は、こちらへ向き直って、深く、頭を下げた。
「この砦の全員が、あなたに命を救われました」
周りにいた兵たちが、それを見ていた。
誰かが、声を上げた。
「外套の奥様!」
別の誰かが続いた。
「戦の女神さまだ!」
「奥様! 奥様!」
歓声が、名前になって、胸壁の上を走っていった。
クラリスは、どんな顔をしていいかわからなかった。嬉しくて、恥ずかしくて、下を向きかけて——それでも、今日だけは、下を向かなかった。
「……ありがとう、ございます」
小さく、そう返すのが精一杯だった。
けれど。
歓声の向こうに、闇はまだ広がっていた。
沼の外側——五十メートルの帯の、さらに向こう。焚き火の群れは、消えていない。角笛の音も、止んでいない。沈んだのは先鋒だけで、敵の本隊は、まだ無傷のまま、闇の中にいる。
二千のうち、沼に呑まれたのは、何百か。
残りは、まだいる。
そして、この沼が守れるのは、砦の周りだけだ。
——明日の朝。
クラリスは、東の空を見た。まだ、欠片も白んでいない。
明日の朝、あの人が来る。援軍を連れて。
沼は、味方のためには道を開けない。援軍もまた、この泥の外で、二千と向き合うことになる。
歓声の中で、クラリスの手は、まだ震えていた。
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