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扉を開けると、ニクラスが立っていた。
いつもの笑顔はなく、大きなアーモンド型の目には緊張感が浮かぶ。
「お荷物、僕が持ちます」
短くそう言って、板の包みを背負う。腰には剣。背中には小ぶりの盾まで括りつけてある。
「本当はもっと手慣れた先輩がつくべきなのですが、誰も手を外せず….。でも大丈夫です。僕が必ず守りますから」
ニクラスが振り返りクラリスの目を見て言った。
クラリスは心配してないと伝えるように首を振った。
「行きましょう」
地下通路は、行きに見たときより、ずっと長く感じられた。
ニクラスが先を行く。小さなランプで足元だけを照らしながら進む。天井が低く、二人とも背を丸めたままだった。石の隙間から染みた水が、ぽつ、とどこかで落ちる音だけがした。
出口の手前で、ニクラスが止まった。
「僕が先に出ます。確認しますので、合図するまで、ここを動かないでください」
「はい」
「それから——」
彼は振り返った。ランプのわずかな光の中で、目だけが真剣だった。
「外に出たら、絶対に僕から離れないでください。敵の斥候が、潜んでいる可能性があります」
十六歳の声だった。
十六歳の声で、そういうことを言わせている。剣を握ったこともない自分のために、この子が先に藪へ出ていく。
クラリスは目頭が熱くなるのを感じた。泣いている場合ではない。ぐっと我慢した。
藪の擦れる音がして、しばらくして、低い声がした。
「……どうぞ」
外は、夜になっていた。
藪をかき分けて窪地から頭を出すと、丘の稜線越しに、砦の影が見えた。二百メートルほど先。壁の上に、点々と灯りが並んでいる。
反対側の空が、ぼんやりと明るかった。敵陣の焚き火だ。丘のこちら側からは炎そのものは見えない。ただ、空の裾だけが赤く滲んでいる。
「正面へ回ります。丘の縁に沿って。……走れますか」
「走れます」
「では」
走った。
腰を低くして、木から木へ。ニクラスが先に走り、木の陰で止まり、耳を澄まし、手で合図する。その繰り返しだった。心臓の音が、自分の耳のすぐ内側で鳴っていた。
ニクラスは片手を剣の柄にかけたまま、絶え間なく周囲に目を光らす。
クラリスは恐怖に怯えながらも、額から流れる汗を拭き、暗闇で見失わないように急いで後を追う。
「一枚目は、この先です」
走りながら、囁くように場所を伝える。
「岩がふたつ並んでいるところの、手前。そこの下に水脈が寄っています」
一枚目の場所に着くと、ニクラスが短い鋤で土を掘った。深さ一尺。板を平らに沈め、土を戻す。
クラリスは、その上に膝をついて、指を当てた。
マナを、流す。
板が、土の下で薄く光った。
だが、それきり、何も起こらない。
一拍。二拍。
——失敗した?
背中が冷たくなった。式のどこかを、写し間違えたのか。三度も読み直したのに。
そのとき。
足の下の地面が、ぐにゃ、と動いた。
「っ」
二人同時に飛び退いた。
さっきまで固かった土が、月のない闇の中で、鈍く濡れた色に変わっていく。岩のあいだから水が滲み出し、地面全体が、ゆっくりと沈黙のまま沼へ変わっていった。踏んでいた場所に、足の形の穴が残って、そこに水が溜まっていく。想定したよりも深い沼になったようだが、砦の範囲50センチには影響を及ぼしていない。
「……奥様」
ニクラスが、目を丸くし、掠れた声で言った。
「これは、すごいです。梯子を建てられないどころか、砦に辿り着けないでしょう」
「行きましょう。あと四枚」
二枚目も、うまくいった。
東の低い壁の前。修理したばかりの、胸壁の低い一帯の正面だった。埋めて、流して、下がる。地面が音もなく緩んでいくのを確かめて、次へ走る。
三枚目の場所へ向かう途中だった。
木立を抜けようとしたニクラスが、突然、止まった。
止まったと思った瞬間、彼は振り向きざまに、クラリスを突き飛ばしていた。
闇から、何かが振り下ろされた。
金属の噛み合う、高い音。ニクラスの剣が、それを受けていた。
敵、という言葉が頭に届くより先に、体が地面に叩きつけられていた。突き飛ばされた勢いのまま、背中から木の幹に当たった。
息が、できなかった。
肺の中身が、全部どこかへ行ってしまった。吸おうとしても、入ってこない。口だけが開いて、声にならない音が漏れた。目の奥に白い火花が散って、世界がぐらりと傾いだ。
金属音が、二度、三度。
短い呻き声。重いものが、地面に倒れる音。
「奥様!」
ニクラスの声が、水の中から聞こえるように遠かった。
「奥様、息を——ゆっくり、吐いてください。吐けば、入ってきます」
言われたとおりにした。吐く。ひゅ、と細く空気が入った。もう一度吐く。少し入る。三度目で、ようやく肺が思い出したように膨らんだ。だが、背中は焼けるように痛かった。
「斥候です。一人でした。……立てますか」
「……立てます」
嘘だった。膝が生まれたての仔馬のように震えて、木の幹に掴まらないと立てなかった。背中は、呼吸のたびに軋んだ。
それでも、立った。
「三枚目——そこの、窪んだところです」
落とした包みを拾い、震える手で板を確かめた。無事だった。
埋める。流す。地面が緩む。
四枚目は、門の正面だった。いちばん敵陣に近い。焚き火の明かりが、木々の隙間からもう見えていた。話し声すら、風に乗って切れ切れに届く。
ニクラスが掘り、クラリスが膝をつく。
背中が痛んで、うまく屈めなかった。奥歯を噛んで、指を土に当てる。マナを流す。腫れた手の中を、力が通り抜けていくたびに、指の付け根が悲鳴を上げた。
地面が、緩んだ。
——あと、一枚。
そのときだった。
敵陣の方角で、角笛が鳴った。
低く、長く。一度。二度。
それに応えるように、丘のあちこちから、鬨の声が上がりはじめた。地鳴りのような、大勢の人間が一斉に立ち上がる気配。焚き火の明かりが、ざわりと動いた。
総攻撃の、合図だった。
「奥様!」
ニクラスが叫んだ。もう囁き声ではなかった。
「戻ります! 走って——」
クラリスは、一歩踏み出して、膝から崩れた。
体が、もう言うことを聞かなかった。徹夜と、腫れた手と、打った背中と、四枚ぶんのマナ。全部の勘定が、いっぺんに回ってきていた。
ニクラスが駆け戻ってきて、目の前で、背を向けてかがんだ。
「おぶります!」
「でも、最後の——」
「いいから!」
少年の背中が、目の前にあった。
クラリスは、もう抗わなかった。体を預けると、ニクラスは軽々と立ち上がって、走り出した。
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