土の魔法式2
最後の一画を刻み終えたとき、窓のない部屋では、朝が来たことすらわからなかった。
小刀を置いた。
その途端、痛みで顔を歪める。
刻んでいるあいだは感じなかったが、手を止めた瞬間に、まとめて押し寄せてきた。指の付け根が脈打っている。親指の付け根には血豆ができ、人差し指の側面は皮が剥けている。インクと鉄の粉で、指先は黒かった。小刀を握っていた形のまま、指が開かない。無理に開くと、関節のひとつひとつが軋んで、クラリスは思わず顔を顰めた。
右手は、赤く腫れ上がっていた。
——でも、できた。
五枚の板が、毛布の上に並んでいた。
紙の上で組んだ式が、一画も欠けずに、鉄の上に移っている。三度、読み直した。間違いはない。
板を抱えて、部屋を出た。
階段を登って外へ出ると、空が白みはじめていた。
明け方だった。一晩、刻み続けていたことになる。冷たい朝の空気が、腫れた手に染みた。
思ったよりも時間をかけてしまったようだ。まだ間に合うだろうかと不安になる。
胸壁の上に、ラウレンツを見つけ、息を切らしながら駆け寄る。
一晩でこの人は変わってしまったのか、と思うほど、頬がこけて見えた。目の下が黒い。それでも声だけは張ったままで、狭間から狭間へ歩きながら、途切れなく指示を飛ばしている。眠っていないのは、彼も同じらしかった。
クラリスに気づくと、彼は目を見開いて、駆け寄ってきた。
「奥様——一体どうしたのですか?….しかも、その手は…」
「これを、見てください」
クラリスは、板を差し出した。
ラウレンツの視線が、板と、赤く腫れた手のあいだを往復した。
「灌漑の式を、組み替えました」
端的に。短く。頭の中で何度も練習したとおりに、クラリスは言った。
「水を撒く式ではなく、集める式です。これを砦の周りに埋めれば、地面が沼になります。膝まで沈む深さです。……梯子は立ちません。人も走れません。荷車は、車輪ごと沈みます」
ラウレンツは信じられないという表情で瞳を光らせたが、同時に疑念が顔に浮かんだ。
「……疑うわけではありませんが、そんな特定した場所だけ沼になる魔法が可能なのでしょうか」
ラウレンツが見たこともなく聞いたこともない魔法に対して疑ってるのは明らかだった。
「砦の周り五十メートルまでから、砦の五十センチまで。それより内側には水が入らないよう、境界の節を入れてあります。壁の基礎は緩みません」
ラウレンツは、しばらく板を見つめていた。
「この砦の地盤には影響は絶対に与えません。試してみる価値はあるでしょう?」
クラリスは畳み掛けるように主張した。
「皆様には迷惑かけません。私が設置しますから。外に出る手段は、ありますか」
彼は、苦痛に満ちた表情でしばらく黙っていたが、口を開いた。
「……今夜なら」
やがて、低く言った。
「日が落ちれば、隠し通路から出られるでしょう。裏はまだ薄い。ニクラスをつけます。……ですが」
彼は、そこで首を振った。
「敵の梯子は、今日中に揃います。総攻撃は今夜か、明日の朝。そんな中を、奥様に外へ出ていただくわけには」
「埋める場所を知っているのは、わたしだけです」
クラリスは、慌てて遮った。
「土の中の水脈が読めないと、どこに埋めても意味がありません。ずれた場所に埋めれば、沼になるのは見当違いの地面です。……五枚しかないんです。一枚も、無駄にできません」
ラウレンツは、口を開きかけて、閉じた。
長い沈黙のあと、彼は片手で顔を拭った。
「……わかりました」
絞り出すような声だった。
「日暮れに、ニクラスを部屋へ向かわせます。それまでは、決して外に出ませんように」
それから、クラリスは狭間に張りついて、外の地面を見た。
土魔法は使えない距離だ。だから、目で読むしかなかった。草の色の濃いところ。岩の出ているところ。雨のあとに水が流れたらしい、浅い筋。村々で何十回も繰り返した読み方を、頭の中の地図に重ねていく。
正面の斜面に、二枚。梯子がいちばん立てやすい、あの緩い帯に。
東の低い壁の前に、一枚。修理が済んだばかりで、胸壁の低いところだ。敵が数日見ていれば、必ず気づく。
残り二枚は、西と、門の前。
敵陣も、見た。
梯子は、もう形になっていた。地面に並べられたそれを、数えた。十二本。まだ増える。長さは——壁の高さより、頭ひとつぶん長い。ちゃんと測ってきたのだ、と妙に冷静な頭が言った。
部屋に戻って、五枚の板に、ルークの石をひとつずつ嵌め込んだ。
透き通った石が、くぼみに収まって、鈍く光る。回復のために取っておくはずだった五つは、これで全部なくなった。
——ごめんなさい、ルーク。
でも、たぶん、これが正しい使い方だ。五人を治すより、誰も傷つかないほうがいい。
板を布で包み、鞄に入れた。
それからの時間が、いちばん長かった。
座る。鞄を開ける。板を出す。式を読み直す。間違いはない。包み直す。鞄に戻す。また出す。
四度目に読み直したとき、自分が同じ節を三度も確かめていることに気づいて、やめた。
お腹は、空かなかった。
それでも、夜に力が出ないのは困る。残っていたパンをちぎって、水で無理やり飲み込んだ。味は、しなかった。
ランプの油が、また少し減った。
天井の向こうの音を数えるのをやめ、手の痛みを数えるのもやめ、ただ、日が落ちるのを待った。
扉が叩かれたのは、部屋の空気が藍色に沈みはじめたころだった。
「奥様」
ニクラスの声だった。




