土の魔法式
「そんなことが、可能なのですか」
ミラは瞳を開きクラリスを見たが、声には、希望と疑いが半分ずつ入っていた。
「土の質を変える魔法など、聞いたことがありません」
クラリスは、もう聞いていなかった。
頭の中で、式が動きはじめていた。
灌漑の式は、水を撒くための式だ。地中の水を読み、乾いたところへ、必要なだけ動かす。必要なだけ——そこに安全弁を三つも噛ませてある。吸いすぎないように。溜めすぎないように。畑を沼にしないように。
逆にすればいい。
安全弁を、全部外す。
読んだ水脈から、引けるだけ引く。撒くのではなく、一箇所に集める。乾き具合に合わせて配分する第二節は、丸ごと要らない。むしろ、いちばん水を吸わない固い土にこそ、集中させる。
——量が足りるか。
おそらく自分の魔法量や村で使った屑石では、話にならない。だが、ルークの石なら。屑石十個ぶんが五つ。板に残した予備の魔力も合わせれば。
「奥様?」
返事をしないクラリスを不安そうにミラが見つめていた。
「部屋に戻ります」
言い捨てて、もう階段を降りはじめていた。
石段を、兵たちが登ってくる。矢の束。石の籠。水桶。すれ違うたびに壁に身を寄せ、そのあいだも頭は止まらなかった。
範囲は、絞らなければならない。
砦の周り、五十メートル。それより外はやらない。やれない、ではなく、やってはいけない。地面を緩めるということは、この丘そのものを緩めるということだ。砦の基礎まで水が回れば、守るための式が、壁を倒す式になる。
——境界の式が要る。
外へ向かって広がる灌漑の展開を、内側で断ち切る節。水はけの式の逆組みでいける。あれは水を逃がす式だから、向きを返せば、水を堰き止める壁になる。
石段の途中で、若い兵と肩がぶつかった。
王妃だと気づき、ハッと敬礼をする。
「も、申し訳ありません!」
「いえ」
答えながら、頭の中では第四節の入口を書き換えていた。深さも決めなければ。表層だけ濡らしても、梯子の足は岩盤まで踏み抜くだけだ。膝の深さ。人が踏めば沈み、抜こうとすればもう片方が沈む深さ。
荷馬車なら、車輪ごと呑む深さ。
部屋に駆け込むと、ランプがまだ灯っていた。
鞄を急いでひっくり返すと、荷物が床に散らばる。
予備の板が、二枚。村で使うつもりだった、まだ式を刻んでいない鉄の薄板だ。それと、測り棒。帳面。羽根ペンとインク。ルークの石、五つ。
——刻むものが要る。
羽根ペンでは、鉄は削れない。
部屋を見回した。ランプ。長椅子。毛布。水差し。
水差しの横に、果物用の小刀があった。ニクラスが桃と一緒に置いていってくれたものだ。刃は薄いが、先は尖っている。
「……ごめんなさい、借ります」
誰にともなく言って、小刀を握った。
床に膝をつき、板を毛布の上に置いて、押さえる。
帳面を開いて、まず紙の上で式を組んだ。灌漑の本体から、第二節を抜く。安全弁を三つ、線で消す。境界の節を第四に差し込んで、集める向きを内から外へ——違う、外から内だ。書き直す。深さの指定。持続の長さ。石一つあたりの負担。
書いては消し、消しては書いた。
インクが指を汚した。構わなかった。
紙の上で式が閉じたとき、クラリスは一度だけ、大きく息を吸った。
理屈は、立った。
あとは、刻むだけだ。板に、間違えずに、この式を。一つ刻むのに数時間かかりそうだ。五枚刻んでる時間があるか不安になったが刻むしかない。
小刀の先を、鉄板に当てた。
ぎ、と嫌な音がして、最初の一画が刻まれた。羽根ペンの何十倍も重い。一節刻むだけで、指の付け根が痛んだ。
構わず、削った。
頭上で、また号令の声がした。遠くで、斧の音が続いている。こん、こん、と規則正しく。あの音が止むまでに、梯子は何本組み上がるのだろう。
——急がないと。
ナイフの角に指があたり血が流れたが気にせず刻み続けた。




