前夜2
どのくらい時間が経っただろうか。
クラリスが落ち着きなく長椅子に座ったり部屋を歩き回ったりしていたとき、突然、遠くで大きな爆発音がした。
クラリスは、長椅子から立ち上がった。
頭の上を、足音が走っていく。微かに聞こえる号令、石の落ちる重い音。悲鳴なのか喚声なのか、区別のつかない声が、土を通って輪郭を失い、ただの震えになって降ってくる。
帝国軍がもう到着し、攻撃を始めたのだろうか。ラウレンツは、砦は簡単には壊れないと言っていた。けれど、この砦の十倍を超える数の軍がすぐそこにいるのだと思い出して、クラリスはぎゅっとスカートを掴んだ。
みんな怪我はしてないだろうか。
——ジルは、来るのだろうか。
早馬は、峠を抜けられたのだろうか。敵が来た道とは別だから、抜けられたはずだ。抜けられたなら、報せはきっと明日の昼に城へ着く。軍が出て、ここまで一日半。
計算は、何度やっても同じだった。あと約二日ちょっと。
そして、その先を考えると、指が冷たくなった。
来たとして、どう勝つのだろう。城の兵は、集めても八百ほどのはず。相手は二千。地図の上で駒を並べても、答えは出なかった。ジルヴェスターなら、何か手を知っているのだろうか。自分の知らない、戦の理屈を。でもこんなに状況の悪いところに来るなんて…
知らないことが、こんなに怖いとは思わなかった。
荷のところへ行って、膝をついた。
いちばん内側から、布の包みを取り出す。そこには、お守りとして持ってきた対の石があった。
何かに縋りたくて、石を握る。石はひんやりとしていた。
ジルヴェスターは間もなく、この襲撃を知ることになる。おそらく、彼自身が駆けつけてくるだろう。
考えれば考えるほど、胃が捻れる思いだった。
リアンツァもこの北西の砦からは遠い。すぐに援軍は来ないだろう。
石を戻そうとして、指が別の包みに触れた。
開くと、透き通った石が五つ、ランプの光を吸って鈍く光った。
ルークの石だった。
『何かあったら、使ってください』
回復の触媒式なら、これくらいの質がないと素人には起こせない——そう言っていた。
もし、ラウレンツが。ミラが。ニクラスが。あの胸壁の誰かが傷を負ったら、これを回復魔法の使い手に渡せば、役に立つだろうか。この砦に、魔法師は一人いると聞いた。五つあれば、五人は——
そこまで考えて、手が止まった。
外の音が変わったことに気がついたのだ。
いつからか、矢の音がしなくなっていた。足音も減っている。かわりに、遠くから、こん、こん、と規則正しい乾いた音が届きはじめた。
座る。立つ。歩く。石を握る。戻す。また握る。
一秒が、一分の長さをしていた。
——だめだ。
気づいたら、扉に手をかけていた。
じっとしていられなかった。何ができるわけでもない。それでも、音の正体をこの目で見ないまま、この箱の中で待っているほうが、もう無理だった。
廊下を抜け、階段を登る。
最後の角を曲がった瞬間、光が目を刺した。
すでに夕方の日差しだった。だが地下の暗さに慣れた目には、刃物のように白い。目を細めて、腕で庇いながら、よたよたと階段を登る。
胸壁の上は、静かだった。
朝のような怒号はないが、騎士や兵たちが、ひたすら石と弓の準備を進めていた。
「奥様!」
ミラが駆け寄ってきた。
「なぜ上へ——」
「音が」
息が切れて上手く喋れない。
「音が、変わったので。……何をしているんですか、あれは」
ミラは、一瞬迷って、それから狭間のひとつへ導いた。
「帝国側が、砦に乗り込むための梯子を組んでおります」
狭間から、外を見た。
丘の下、矢の届かない距離に、敵の陣が広がっていた。
天幕の列。杭に繋がれた馬。積み上げられた荷。そのあいだで、上半身裸の兵たちが木材に群がっている。伐り出した幹の枝を落とし、並べ、縄をかける。組み上がったものが、すでに何本も、地面に寝かせてあった。
視線を、上げた。
陣は、正面だけではなかった。丘を巻くように、右にも、左にも、天幕の群れが散っている。煙が幾筋も立ち上っていた。焚き火の数だけ、人がいる。
囲まれている。
恐怖で胃が縮こまり、吐き気がした。
「……主力は正面です」
ミラが、低く言った。
「裏はまだ薄い。完全に塞がれてはおりません。ですが、時間の問題かと」
クラリスは、答えなかった。
彼女の目は、梯子に群がる兵たちを見ながら、それが壁に掛けられる様子を想像していた。
そのとき、不意に、ふとある考えが頭に浮かんだ。
「ミラ」
「はい」
「土の質を変えれば、梯子が立たないようにできますか。」
自分の声が、さっきまでと違うのが、自分でわかった。




