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前夜

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石段を登りきると、風が激しく吹きクラリスは髪を抑えた。


胸壁の上には、人の背丈ほどの石壁が壁の縁に沿って続き、等間隔に狭間が切ってある。その狭間ひとつごとに兵が張りつき、足元には矢の束と、石を詰めた籠が並べられていた。


通路は人ひとりがやっとすれ違える幅しかない。そこを、矢の束を抱えた兵が身体を斜めにして駆け抜けていく。すれ違いざまに怒鳴り合う声。角の塔からは、下へ向かって配置を叫ぶ声が降ってくる。



昨日夕日を見た壁で、星を見上げた壁だったはずだ。クラリスは自分が何か別の世界に来てしまっているような錯覚に陥った。


「指揮官!」


ミラが叫ぶと、塔の下で指示を飛ばしていたラウレンツが振り返った。


険しい顔のまま近づいてくる。クラリスを見つけると軽い声で話し始めたが、瞳の色は暗く暗澹としていた。


「……状況は、よくありません」


彼は前置きなしに言った。


「二千です。こちらは百五十。……ただ、この砦は簡単には落とせない造りになっております。壁を越えるには梯子なり櫓なりが要る。連中はそれをこれから組む。……時間は、あります」


「時間があれば、どうなるのですか」


訊いた声が、掠れた。


「城へは、すでに早馬を出しております。……陛下の軍が来るまで、…三日」


ラウレンツは、指を三本立てた。


「三日、この壁が保てばよろしい。それだけの話です」


それだけの話、と彼は言った。


クラリスはラウレンツが不安にさせないように明るく伝えてるのが分かり、胃が重くなる。


クラリスは頷こうとして、自分の手が震えているのに気づいた。


怖い、というのとは少し違った。


口の中がカラカラになるような緊張感のなか、あたりをもう一度見渡す。


湯を運んでくれた若い騎士。今朝のパンをまだ温かいまま包んでくれた厨房で働いていた若い兵士たち。板を五枚とも抱えて張り切っていたニクラス。



「ニクラス」


真っ青になったクラリスの顔をみて、ラウレンツが呼んだ。


「奥様を、下へ。……例の避難場所に」


「はっ」


「奥様」


彼は、最後にこちらを見た。


「必ずお守りします。……この砦の名にかけて」


そう言って、もう背を向けていた。塔の上から呼ぶ声に、大股で石段を登っていく。


その背中に、何か言いたかった。


何も出てこなかった。声は、喉のずっと手前で凍っていた。




地下の広間は、人の気配で満ちていた。


二百の息づかい。赤子の泣き声。低い祈りの声。荷を抱え直す音。


けれど、ニクラスが案内したのは、その広間ではなく、奥の通路を折れた先の、小さな部屋だった。


石壁に、ランプがひとつ。簡素な長椅子がひとつ。窓もなく、飾りもなく、音だけが天井越しに、遠く降ってくる。


「ここで、しばらくお待ちください」


ニクラスが、ランプの芯を整えながら言った。


「水と、毛布、奥様の荷物をを持ってまいります。それから——」


彼は、そこで少し言いよどんだが、少年とは思えない重い口調で続けた。


「状況が悪くなれば、僕とともに、地下の隠し通路から避難します。……ラウレンツ様のご命令です」


クラリスは、その言葉を頭の中で二度なぞった。


僕とともに、避難します。



「……わかりました」


クラリスは苦しげに顔を歪めた。恐怖と、無力感と一人で安全なところにいる罪悪感で押しつぶされそうだった。



ニクラスが出ていって、扉が閉まった。


ランプの炎が、一度だけ揺れて、静かになった。


クラリスは、長椅子に腰を下ろした。

膝の上の手は、まだ震えていた。

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