灌漑作業2
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土に手を当て、細く土魔法を流す。
昨日と同じ編み目を、頭の中に描く。板の周りから、水がゆっくりと動いていた。斜面の上のほうへ、少しずつ。溜まりすぎていた粘土質の窪みからは、水が抜けはじめている。
ちゃんと、動いている。
クラリスの肩の力が抜けて、ようやく息を吐いた。
立ち上がったところで、ハインツが待っていた。
彼は呆気に取られたような、驚愕と尊敬の眼差しでクラリスを見ていた。
「ありがとうございます。来年の収穫が楽しみです。毎年陛下も来られて励まして頂いてたのに十分な収穫ができず心苦しかったのですが…結局は王妃様にまでお世話になってしまいました。」
ハインツは頭を少し掻き笑っていたが、ふと真面目な表情になり、一歩下がり頭を下げた。
「アルダーンの王族の皆様に貢献できるよう、これからも精一杯努力します。」
クラリスは一瞬驚いて、目を丸くしたが、すぐに、胸の奥が熱くなって、目の縁が熱くなった。それを見られたくなくて、慌てて下を向いた。
また一歩、王族に、ジルヴェスターの隣にいても恥の無い人に近づけたような気がした。
麦の穂が、風で一斉に傾いた。
その後の第二村から第五村までも順調だった。
九日目の夕方、第五村での設置を終えて砦に戻ったたクラリスは、夕食のあと、壁の上に登った。
見張りの兵が、少し驚いた顔をしたがすぐに敬礼した。ミラが後ろからついてきて、少し離れたところに立っていた。
日はとうに沈んでいる。
新月だった。空が、恐ろしいほど暗い。そのぶん、星がよく見えた。城で見る空より、ずっと粒が細かい。地平の際まで、びっしりと散らばっている。
北の山脈が、黒い塊として横たわっていた。夜の黒々とした北の山脈を見ると訳もなく胸騒ぎがふる。
峠の切れ目も、いまはただの闇である。あの向こうにラーゲン高原があって、そのさらに向こうに帝国があるのだと聞いても、実感が湧かなかった。
北東の砦からは、何の報せも来ていないはずだ。
ヴィムが詰めているはずのあの峠で、この十日間、何も起きなかったということだ。
リアンツァでの国王の説得はうまくいっているのだろうか。王太子が、いまも動員を引き延ばしてくれているのだろうか。リアンツァに潜伏しているユアンは無事だろうか。
帝国も…何も動いていないのだろうか。
離れたところにいて情報も遅く、何もできずにいると、最前線にいて危険と隣り合わせのジルヴェスターのことを思うと胃が捻れる思いだった。
山脈の稜線のすぐ上に、ひとつだけ、ひときわ明るい星が光っていた。
ほかの星とは違って、瞬かない。強く、静かに、そこにある。
クラリスは、しばらくそれを見上げていた。
——どうか。
あの人に、何もありませんように。
夜半過ぎ、ベッドでまどろんでると、突然、肩を揺らされて起こされる。
「奥様、敵襲です。すぐに避難を。」
ミラの声だった。彼女はすでに剣を携え、武装していた。
一瞬、意味がわからなかった。
「北東の砦ですか?」
「北東ではありません」
ミラの顔は、青ざめていた。
「帝国軍が高原をぬけてここへ。朝には到着するでしょう。時間はありません。着いてきてください!」
クラリスは困惑したまま慌てて服を着替えてドアの外にでる。
その瞬間、騒がしい音が耳に入る。ドアの外にでは突然の事態に混乱した兵士たちが怒号をあげて駆け回っていた。
クラリスは半分放心としながら、兵士たちの間をぬけ、ミラにあたふたと着いて行きながら階段をのぼっていく。
壁の岩と岩の隙間のような窓を見つけると、はあはあと息を切らしながら外を見る。くらくらとする目に外の景色が飛び込んできた。
クラリスは思わず唾を飲み込む。夜明けが近く薄暗い闇の中、無数の松明が、ゆっくりと下ってきていたのだ。
「新月で発見が遅れました。約二千の軍です。……もう峠を抜けております」
クラリスは、闇の中で揺れる無数の光を、ただ見ていた。
渡れないはずだった。
水がない。荷馬車で一月。八百年、記録がない。
——だから、西は静かだと。




