北西の砦
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夏の街道は、思っていたよりずっと気持ちがよく、馬の上で大きく息を吸う。
麦畑がどこまでも続いていて、風が渡るたびに、穂が一斉に傾いて戻る。空が高い。汗はかくが、山道のような息苦しさはなかった。
「奥様、姿勢がよくなられましたね」
二日目の昼、ミラが馬を並べてきた。
「そうですか?」
「はい。以前は鞍の上で腰が逃げておりました。……いまは、馬の歩きに合わせておられます」
たしかに、前のように太腿の痛みは感じなくなっていた。
北山脈への遠征も、少しは報われたらしい。
ニクラスが後ろから口を挟んだ。
「はい、速さも十分になられてますし。魔法も素晴らしいのに……。一部の騎士のあいだでは、戦の女神だなんて言われてるんですよ」
またニクラスが妙なことを言っていて、恥ずかしさで身体が固まる。
隣にいたミラは、その二人の様子を見て、笑いを我慢するかのように前を向き続けていた。
北西の砦に着いたのは、二日目の夕方だった。
丘の上に、石積みの壁。以前見たときは一部崩れていたが、いまは新しい石が積み直され、足場が外されたばかりの箇所は色が違っていた。壁の上を、兵が歩いている。
門をくぐると、ラウレンツが待っていた。
「ようこそ、我らが辺境の宿へ」
ラウレンツは笑顔で両手を広げた。
「お世話になります」
「麓の宿にお泊まりいただく案もあったのですが、陛下のご希望で。……近ごろは街道に獣が出ます。壁の中のほうが安全でして」
「お手間をかけてしまって、申し訳ないです」
「いえいえ! 外套の奥様のためとあれば、騎士たちは喜んで働きますよ。それに、村を回るにも、ここを拠点にされたほうが早うございます」
ラウレンツは胸を張り、大したことないと言わんばかりに話した。
案内された部屋は、簡素だった。
石の壁に、木の寝台。卓がひとつと、椅子が一脚。窓は細く、鎧戸がついている。それだけの部屋だった。
ただ、床は掃き清められていて、寝具は真新しい。壁の隅の埃まで払われていて、丁寧に用意されたことが感じられた。
あとでこっそり見知らぬ騎士に聞くと、三日かけて用意したことがわかった。女の泊まる部屋など、この砦には初めからないのだ。
クラリスは、少し申し訳なくなった。壁を直し、矢を積み、日々やるべきことが山ほどある場所で、三日を物置の掃除に使わせてしまった。
部屋には湯殿はなく、運び込まれる桶の水で身体を洗うしかなかったが、文句など言える状態ではなかった。
話しかければ笑顔で答えてくれるものの、砦にいる騎士や兵たちの顔には常に緊張が走っていて、戦が近いことを嫌でも感じた。
夕食のあと、ラウレンツが砦を案内してくれた。
一階は、詰所と厨房。分厚い扉の向こうが食糧庫で、麦の袋が天井近くまで積まれていた。塩漬けの肉が吊るされ、干した豆の樽が並んでいる。
「どれくらい保ちますか」
「百五十人で、四十日は大丈夫かと。ただ、兵糧攻めに遭うことはないでしょうから、十分でしょう」
聞いたものの、戦の知識がなかったため、クラリスはこくりと頷いた。
食糧庫の隣に、広い地下室があった。がらんとしていて、床に藁が積んである。
「ここが避難所ですか?」
「はい。麓の村から人が上がってきたら、ここに入れます。……三百人は入りますな。詰めれば四百」
クラリスは、その空間を見渡した。
天井が低い。窓はない。三百人が座って何日も過ごす場所には、とても見えなかった。ここで戦いが終わるまで待つことになる。麦畑で話したおばあさんの顔を思い出し、胸が重くなった。
「……こんなに入るんですね」
「入るだけです。快適ではございません」
ラウレンツは、めずらしく淡々と言った。
「ですが、壁の中にいれば死にません。それだけのために、こういうものを作ってあるので」
その後、砦の壁の上に登ると、視界が開けた。
夕暮れの空の下、なだらかな斜面が下へ続いて、その先に荒れた土地が広がっている。草が薄く、岩が混じっている。
そして、ずっと向こうに、山の切れ目が見えた。
「あれが峠ですか」
クラリスは見ながら胃が重くなる。
「さようで」
「……近いんですね」
「近くはありません。三里ほどございます」
ラウレンツは、手をかざした。
「ただ、遮るものがないのです。この砦は、峠を見るために建っておりますので。……あそこに何か動けば、こちらは必ず気づきます」
「気づいてから、どのくらいで敵は来られるのですか」
「歩兵なら半日。騎馬だけなら、もっと早いでしょうな」
半日。
クラリスは、その斜面をもう一度見下ろした。
薄い草。岩混じりの土。傾斜は緩い。馬が駆け上がるには十分な緩さだった。
「奥様、ご心配なく!」
ニクラスが、明るい声を出した。
「いまはここに百五十人もいるんです。前は五十だったんですよ。しかも壁も直りましたし、矢も石も山ほど積んであります。……何かあっても、まったく問題ありません」
ニクラスの明るい答えに、クラリスは少しだけ微笑んで返したが、不安は消えなかった。
最後に案内されたのは、地下だった。
食糧庫のさらに奥。低い扉があって、その向こうが細い通路になっている。ラウレンツが燭台を持って先に立った。
「陛下から、お聞きになっているかと」
「隠し通路のことですね」
「さようで」
通路は狭かった。二人並んで歩けない。天井が低くて、ラウレンツは背を丸めている。石を積んで作られたもので、ところどころ、水が滲んでいた。
「どこへ出るんですか」
「峠と反対の側でございます。丘の裏の窪地に。……藪で塞いでありますので、外からは見えません」
「わざと反対に?」
「そうです。攻め手は峠の側から来ます。反対側なら、囲まれても抜けられる」
クラリスは、暗い通路の先を見た。
冷たい空気が流れてくる。どこかで、外と繋がっているのだ。
「ただし」
ラウレンツが振り返った。
「囲まれてからでは遅うございます。相手が丘全体を回り込めば、この出口も塞がれます。……使うなら、早い段階でということで」
そこまで話して、彼は少し考えてから続けた。
「まあ、使うことはないでしょうな」
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