(ジル視点)来ない
満月の翌日は、雨だった。
夜明け前から降りはじめて、昼を過ぎても止まなかった。谷底の川が濁って、水嵩が少し増している。天幕の布を叩く音が、途切れずに続いていた。
時間が過ぎても来ないリアンツァ王太子に対し、アルダーン側は猜疑心と苛立ちを抑えきれなくなりつつあった。
「向こうの峠は、この雨だと難儀しますね」
ユアンが、外を見ながら言った。
「遅れる理由には、なる」
ヴィルスが答えた。
だが、アルダーンの騎士たちは次第に無口となり、腕を組んで天幕内を意味なく歩き回り、シェルナの騎士たちは下を向いて顔を隠すように、何かを祈るように座っていた。
日が高くなった。
昼になった。
午後、ハーゲンが天幕に入ってきた。
「川向こうに、動きはございません」
「斥候は」
「二人出しております。稜線まで登らせましたが、峠道に人影はないと」
ジルヴェスターは、地面の一点を見たまま頷いた。
雨で足が遅れる。それはわかる。だが、遅れるにしても、峠道のどこかには影が見えるはずだった。見えないということは、まだ峠を越えていないということだ。
——今日は、ないか。
そう思ったところで、腹の底が冷えた。
今日、来ないなら。
日が沈むころ、ジルヴェスターは天幕を出て、川辺に立った。
雨は小降りになっている。雲が厚くて、日没の刻限がわかりにくかった。空の色が変わるのを待って、掌の石にマナを流す。
一拍。二拍。
細い煙が立って、輪になって、散った。
——今日も、無事だ。
それだけを確かめて、天幕に戻った。
翌朝も、来なかった。皆んなが苛立ち始めていた。
雨は上がっていた。空は晴れて、峠道がよく見える。人影はひとつもなかった。
昼まで、誰も口をきかなかった。
昼を過ぎたころ、ディートリヒが立ち上がった。
「陛下。もう一晩お待ちになるおつもりですか」
「ディートリヒ」
ハーゲンが制したが、彼は止まらなかった。
「二日でございます。指定してきたのは向こうです。向こうが決めた日に、向こうが来ない。……これを、何と呼べばよろしいので」
ディートリヒは、天幕の外を指した。
「峠は見えております。誰も来ない。……最初から来る気がなかったと考えるほうが、よほど筋が通ります」
「では、何のために呼び出した」
「僕を、国から引き剥がすためかもしれないな」
突然のジルヴェスターの一言に部屋の空気が、止まった。
ディートリヒが加勢する。
「王が十騎で城を空けている。それを知っているのは、ここにいる者と——向こうだけです。この七日間、リアンツァの本隊がどこで何をしているか、我々には何ひとつわかりません」
「ヴィルス殿」
ハーゲンが、低く言った。
「あなたは、王太子は来ると仰った」
「言いました」
「では、なぜ来ないのですか」
ヴィルスは、しばらく黙っていた。
そして、正直に言った。
「……わかりません」
天幕の中が、しん、とした。
「私は、あの男が来ないという選択をする人間ではないと申し上げました。それは、いまも変えません。……ですが、来られない事情ができたのなら、話は別です」
「事情とは」
「王側に露見した。あるいは、捕らえられた。……あるいは」
彼は、そこで言葉を切った。
「私が、読み違えた」
ディートリヒが、鼻で笑った。
「では、我らはシェルナの王太子殿下の目測ひとつで、この谷のために訳七日も城を開けていたわけですな」
「ディートリヒ、口を慎め」
ハーゲンが叱ったが、その声にも力がなかった。
ジルヴェスターは、天幕の布を見上げていた。
もし、この七日のあいだにリアンツァが動いていたら。
——城に判断をするべき人物がいない。ラウレンツが代わりに務めるだろうが、確実に指示は遅れる。
一瞬の遅れが多くの騎士の命を奪うだろう。
クラリスも…。
「……戻る」
自分の声が、他人のもののように聞こえた。
「陛下」
「もう一日待って、来なければ引き返す——と言うつもりだったが、やめる。今から発つ」
彼は立ち上がった。
「城へ戻って、戦の支度をする。峠に増員を出す。……ヴィルス殿、あなたは南へ」
「陛下」
「あなたに責はない。読み違えは、僕もした」
言いながら、外套に手をかけた。
指が、少し震えていた。怒りではない。もっと単純に、恐ろしかった。
そのときだった。
天幕の外で、水を蹴る音がした。
誰かが川を走って渡ってくる音だ。ディートリヒが剣を抜き、ハーゲンが入口を塞ぐ。
「——ユアン殿!」
叫んだのは、外にいた騎士だった。
布が跳ね上がって、ユアンが転がり込んできた。
息が上がっている。肩から腕にかけて、外套が裂けていた。裂け目から、血が滲んでいる。ヴィルスが立ち上がって、その体を支えた。
「ユアン、お前」
「大丈夫です。……かすっただけです」
彼は顔を上げた。
汗と泥にまみれていて、それでも、目だけが笑っていた。
「来ました」
一瞬、誰も動かなかった。
「北の稜線です。同じく十騎ほど。……途中でゴブリンの群れとやり合ったようで、ひどい有様ですが」
ジルヴェスターは、外套を握ったまま立ち尽くしていた。
「間違いないか」
「間違いありません」
それを聞きヴィルスは、顔抑えてしゃがみ、大きく息を声を出して吐き出した。




