(ジル視点)残された天幕2
ヴィルスも、剣に手をかけていた。
かなり痩せている。頬がこけて、目の下が落ち窪んでいる。髪は無造作に括ってあるだけで、着ているものは、どこかの村人から譲り受けたような粗い上着だった。あの、非の打ちどころのない王太子の姿は、どこにもなかった。
それでも、翠の目だけは同じだった。
こちらを見て、その目が、大きく開かれわずかに緩んだ。
「……来ましたか」
「ああ」
「来てくださると思っていました」
ヴィルスは、そう言って笑った。
そのあと、奥からユアンが出てきた。
「馬は目立ちますので、少し離れたところに繋げますか。ほかの騎士の方々も、こちらへ」
ヴィルスたちは、アルダーンを発ったときと同じ五騎で、ここまで来たようだった。
アルダーン側の十騎と合わせて、小さく囲む。
ディートリヒが干し肉と乾酪を出すと、ヴィルスたちは礼を言って食べはじめた。
「何日、食っていない」
「ちゃんと食べたのは……四日ほど前でしょうか」
「四日」
「検問が厳しくて。荷は途中で捨てました」
彼は苦笑した。
「リアンツァの警戒が、この二月で桁違いになりました。国境沿いはもちろん、国内の街道にも詰所ができている。……商隊にまぎれるのが精一杯で、そのぶん動きが遅くなりました」
「王太子との接触はできたのか」
「時間がかかりました。あちらも、王側に知られるわけにいかないので。……こちらから会いに行くのではなく、向こうが動ける日を待つしかない。それで、二月ほど」
ジルヴェスターは、懐から折り畳んだ紙を取り出した。
例の手紙だった。
「……これのことだが」
ヴィルスは、それを見て、少しばつが悪そうな顔をした。
「ああ。ひどい紙でしたでしょう」
「うちの軍議は、二つに割れた。半分は、あなたが捕らえられて書かされたと言った」
「でしょうね」
「否定しないのか」
「否定できません。実際、そう読めるように書きましたので」
ジルヴェスターは、眉を上げた。
「わざとです。……いえ、半分はわざとで、半分は本当に紙がなかったのですが」
ヴィルスは、杯を置いた。
「紋を入れるわけにはいきません。我々は何があってもどの国にも肩入れしていることが知られるわけには行きませんから。」
彼は、あっさりと言った。
「陛下と交わした二つ目の約束です。戦がどう転んでも、シェルナは中立を主張する。……守るためには、あの紙でなければならなかった」
ジルヴェスターは、しばらく黙っていた。
それから、手のなかの紙を、丁寧に折り直した。
「妻が、あれを見て蒼くなっていた」
その一言に、ヴィルスの表情が初めて崩れた。
「兄が捕らえられているのではないかと。三日、まともに寝ていなかったと聞いている」
「……それは」
彼は、口を閉じた。
計算に入れていなかった、という顔だった。国のことなら十手先まで読む男が、妹のことだけは、いつも読み違える。
——似た者同士か。
ジルヴェスターは、それを口には出さなかった。
ヴィルスたちが食べ終わると、すぐに本題に入った。
「帝国が、リアンツァに命じているようです。」
ヴィルスは、地面に枝で線を引いた。
「アルダーンを叩け、と。……この二年で七度、使者が来ているようです。七度目のあとから、徴発も始まった。リアンツァ北西の帝国との国境沿いに帝国軍が軍を配置しているらしい。」
ディートリヒやハーゲンは驚いた顔でジルヴェスターをみる。
ジルヴェスターは、線を見下ろした。
「リアンツァは、それをどう読んでいる」
「あちらも馬鹿ではありません」
ヴィルスは、枝でもう一本、線を足した。
「アルダーンと戦えば、勝っても負けても消耗する。奇襲をかけたとしても、総軍事力はアルダーンが上です。しかもリアンツァには遠征になり不利だ。生半可には終わらない。……そして疲れ切ったところで、リアンツァも帝国に潰される。王太子は、はっきりそう言っていました。だからアルダーンとは戦はしたくない、と。」
「それで戦の準備を長期化させてたということか。そして目立たせて協議に持ち込みたかったか…….問題は国王か」
「話が早くて助かる」
ヴィルスの声が、初めて重くなった。
「リアンツァの王は、王太子を嫌っております」
「聞いている。……甥だそうだな」
「はい。先代の王——今の王の兄の子です。本来なら、あの方が王になっていた」
ヴィルスは、枝を放った。
「兄が急死して、弟が継いだ。甥が成人したいま、宮廷には『本筋はあちらだ』と言う者が絶えません。……王にしてみれば、目の上のこぶどころではない」
「だから、何を言っても聞かないと」
「聞きません。……正確には、王太子が言うから聞かない。同じ内容を別の者が言えば、あの王は理解できる方です」
「理解できるのか」
「できます」
ヴィルスは、はっきりと言った。
「私は二度、間近で見ております。感情は激しいが、愚かではない。……ただ、いま、あの方の周りにいるのは帝国寄りの者ばかりで、正しいことを言う人間が、よりによって甥なのです」
ジルヴェスターは、天幕の布を見上げた。
「……つまり、王太子が国王を説き伏せられるかどうかに、すべてがかかっていると」
「そういうことになります」
「だがそんな話は信じられん。あいつらは裏切ることを生業にしている国だ」ディートリヒが蔑むように言う。
ヴィルスは頷いた。
「お互いの国の感情を私は知っている。だから、直接王太子が来て同盟を結べない限り、お互い信用はできないだろうと、私から伝えてあります。……ですから、彼は絶対に来ます。国王を説き伏せられるかどうかは、正直わかりません。ですが、来ないという選択をする男ではない。ここに来なかったらどうなるか、彼もわかっているはずです。」
ジルヴェスターは黙っている。
その言葉に、返す言葉が見つからなかった。
同盟が結べれば余計な戦を回避できる。
しかし、これでリアンツァが来なければ、騙し行為のようにアルダーン側は理解するだろうし、アルダーンが溜めてきたリアンツァへの怒りを止めるのは、もう難しいだろう。
きっと、全面戦争になる。
外はもう暗い。ジルヴェスターは天幕を出て、川のほうへ歩いた。
間も無く約束の時間となる。




