(ジル視点)あの谷
馬をほぼ休むことなく走らせ、麓の宿場町に着いたのは、城を出て一日後の夕方だった。
町の様子は、ずいぶん変わったと感じた。
古い砦は整備され、百人の騎士と兵が詰めている。彼らが交代で町に下りてくるので、宿はどこも埋まり、鍛冶場は昼夜を問わず槌を打ち、通りには荷駄が並んでいた。半年前は、山へ入る者が最後に立ち寄るだけの、静かな町だった。
自分の指示が現実に落とされてるのをみて、改めて自分の判断一つ一つの重さを実感する。
ジルヴェスターは馬を止めて、北の稜線を見上げた。
峠は、あの山の切れ目にある。
目を閉じた。
——もし、あそこから来たら。
砦の見張り場が、まず気づく。狼煙を上げて町へ知らせ、同時に伝令が走る。砦から城まで、直した橋を使って一日半。
城に報せが届くのに、二日弱。
他方、敵が峠に見えてから、ここまで来るのに約半日というところか。
狼煙を見た町の者は、できるかぎり砦の地下へ避難する。……間に合わない者も出るだろう。
城からの支援軍が来るまで、砦の百人で耐えることになる。そのぶんの食糧も、弓も石も、支度は整えているはずだ。
城の本隊が動いて、ここまで一日半。橋の修理で一日縮めた。合わせて三日半。
——保つ、はずだ。
目を開けた。
「陛下」
ハーゲンだった。いつのまにか隣に馬を寄せている。
「宿を取っております。……今夜は、休んでいかれますか」
ジルヴェスターは、後ろを振り返った。
十騎。城を出てから、ほとんど休まずに走ってきた。ディートリヒは背筋を伸ばしたままだが、若い騎士の何人かは、鞍の上で明らかに体が重くなっている。魔法師の青年に至っては、顔色がよくない。
「満月の翌日まで、あと二日半ある。今日は休もう」
「はっ」
ハーゲンが下がっていくと、後ろのほうで、若い騎士がわずかに肩の力を抜くのが見えた。
宿の二階に入り、鎧を外して、窓を開けた。
夏の日は長い。空の端が、ようやく赤くなりはじめている。
懐から、布の包みを取り出した。
石は、思ったより軽かった。城を出てからの野営でも試している。ただ、あのときより、距離はずっと離れている。
日が、稜線に触れた。
ジルヴェスターは、石を掌に載せて、そこへマナを流し込んだ。
剣に流すのと同じ要領だ。ただし、量はごく少なく。刃に注ぐときの、百分の一もない。
一拍。
——何も起きない。
二拍。
指先が、わずかに温かくなった。
そして、掌の上で、細い煙が立ち上った。
まっすぐに伸びて、途中で内側へ巻いて、上のほうで合わさる。歪んだ、けれどはっきりとした輪の形になって、それから、ゆっくりと散った。
ジルヴェスターは、しばらく動かなかった。
届いたか。
クラリスは、届くかどうかわからないと言っていた。城の中でしか試していないから、と。心配で心配で我慢できないと思うのです、と言いながら、下を向いていた。
あのとき、あの子は自分が押し付けているのだと思っていたのだろう。石を差し出す手が、わずかに震えていた。
いま、あの城のどこかで、同じものが見えているはずだった。
同じ時刻に、同じことを考えて。
ジルヴェスターは、掌の石を見下ろした。
自分が安心できるように、とクラリスは言った。まるで、自分のための道具のような言い方だった。
そんなわけがない。
胸のあたりが、静かに緩んでいくのがわかる。何も伝わらないはずの石だ。無事かどうかしかわからない。それだけのことで、こんなに違うとは思わなかった。
——僕のほうが、安心している。
クラリスが同じ気持ちでいてくれることを思い、笑いが漏れた。
今まで女性には苦労したことはなかった。
生まれもったこの顔で笑顔で話せば誰もが僕に夢中になっていた。だが、自分が何かに振り回されることななく、常に合理的、効率的な判断だけを下してきた。
….いつの間にか僕は彼女に夢中になってたようだ。彼女のために早く帰りたいと思ったし、彼女を何か鳥籠にでも入れて持ち歩きたいとさえ思った。
夜、階下の卓に地図を広げた。
ハーゲン、ディートリヒ、それに騎士の一人。四人で囲む。
「経路でございますが」
「南だ」
ジルヴェスターは即答した。
「北回りは、前に群れが出た筋だ。……追跡魔法の板の記録が来ている」
懐から折り畳んだ紙を出す。城を出る前に、魔法師の青年が写してきたものだ。この半月、峠の周りで動いた石の記録が、日付ごとに並んでいる。
「無駄な争いは避ける。谷に着くまでに、一人も減らしたくない。……向こうがどう出るかわからん以上、十騎は十騎のまま連れていく」
「御意」
「それから、獣に出くわしても、深追いはするな。倒す必要はない。抜ければいい」
「はっ」
ディートリヒが、素直に頷いた。
三人が下がってから、ジルヴェスターは地図の前に一人残った。
罠ではない、と軍議では言った。
絶対ではない。もし罠だったなら、この十騎全員が危うい。
手のなかの石を、握りしめる。
……まったく、たった半年で、ずいぶん弱くなったものだ。
ジルヴェスターは石を布に包み直し、いちばん内側の懐にしまった。
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