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夏のベランダ

「お弁当、でございますか」


朝、着替えを手伝いながら、リタが手を止めた。


「うん。今日から三日、お昼は書庫で食べたいの。ちょっと忙しくて」


「……クラリス様」


「なに」


「シェルナでもそうでしたけれど、こちらでも同じことをなさるおつもりですか」


リタの目が、はっきりと白かった。


シェルナにいたころ、机に向かうと三日は出てこなかった。食事を運ばせ、湯を断り、しまいには母に叱られて、老師に取り上げられた。何度も繰り返した光景である。


「今回は、ちゃんと夜には出ます」


「その台詞も、シェルナで七回は伺いました」


言い返せなくて、クラリスは黙った。


リタは襟を直しながら、しばらく何も言わなかった。それから、ずいぶん小さな声で言った。


「……お作りします」


「え」


「パンと、干し肉と、果物を。それから水も。書庫は埃っぽうございますので、布に包んでお持ちします」


「ありがとう」


「そのかわり、夜はきちんとお休みくださいませ。……姫様が、遠い国にひとりで来て、戦にまで巻き込まれて、少しおかわいそうですから。今回は許して差し上げます」


リタは、それきり黙って支度を続けた。


「……リタが一緒に来てくれたじゃない」


顔を上げようとしないので表情は見えなかったが、襟を直す指が、いつもより丁寧だった。




三日目の夕方、それはようやく形になった。


対の石は、二つとも同じように書き換えた。入口の条件を緩め、式ではなく、ただ一定量のマナが流れ込んだだけで反応するようにする。三度失敗して、四度目で通った。


問題は、距離だった。


確かめようがない。城の端まで離しても消えないところまでは試したが、馬で三日の距離となると、やってみるまでわからない。


「……試せないんじゃ、意味がないんじゃないかしら」


呟いて、それでも、包みに石を入れた。


彼も荷は最低限にしたいはずだ。無駄な石にならないだろうか。迷惑がられはしないだろうか。


そう思ったが、十日間なんの報せもなく過ごすことを想像したら、胸のあたりが冷たくなった。


絶対にお願いして、持っていってもらおうと思った。






その晩、クラリスは南の翼のベランダに立っていた。


夏の夜だった。昼のあいだ石が抱えた熱が、ようやく抜けはじめる時刻で、風がわずかに涼しい。城下の灯が、下のほうに散らばって見える。窓辺の白い灯が、月の祭りのときより少し増えている気がした。


背後で、扉が開いた。


「こんなところにいたのか」


ジルヴェスターだった。上着は脱いでいる。明日発つというのに、いつもと変わらない顔をしていた。


「探しました?」


「探した。部屋にも書庫にもいないから、リタに訊いた。……ベランダだと即答されたよ」


「あの子、なんでも知ってますね」


彼は隣に来て、手すりに肘をついた。並ぶと、頭ひとつぶん高い。


しばらく、二人とも街の灯を見ていた。


「ジル」


「なんだ」


「渡したいものがあります」




包みを開いて、石をひとつ差し出した。


ジルヴェスターは、それを手のひらに載せて、しばらく眺めた。


「石だな」



「はい。…書庫で見つけた、古い式です。八百年前のもので、二つで一組になっていて」


説明しながら、なぜか声が小さくなった。


「両方が、同時にマナを入れると、反応します。輪の形の煙が出るんです。片方だけだと、何も起こりません」


「ほう」


「だから、日の入りの時に、二人で同時に、これにマナを入れます。……輪が出れば、向こうが無事だということが、わかります」


言い終えて、クラリスは下を向いた。


「それだけの式です。何も伝わりません。無事かどうかだけです。あと、たぶん、距離が届くかもわかりません。城の中でしか試していないので、谷まで届くかどうかは……」


そこで、いったん息を吸った。


「……あの、それでも、持っていってもらえませんか。わたし、どうしても心配で心配で、我慢できないと思うんです」


沈黙があった。


顔を上げられなかった。


たぶん、笑われる。あるいは、そんな暇があるのかと呆れられる。この人はいま、国の命運を懸けて谷へ行こうとしているのに、妻が持ってきたのは、無事かどうかだけがわかる石ころひとつだ。


「……クラリス」


「はい」


「顔を上げて」


言われるままに顔を上げた。


ジルヴェスターは、笑っていなかった。




彼は、石を握ったまま、こちらをまっすぐに見ていた。灰色の目が、夜の中では、いつもより濃く見えた。


「……こんなものを渡されたのは、初めてだ」


「え」


「母は昔に亡くなり、父が倒れてから六年。僕は誰にも自分の無事を報せずに出かけてきた。心配するなと言って、行って、帰ってきた。……それでいいと思っていた。誰も、そんなものを欲しがらなかったからな」


クラリスは、息を止めていた。


「きみは、欲しがったんだな」


「……はい」


「そうか」


彼は、石を握った手を、そのまま胸のあたりへ持っていった。


「嬉しいよ」




それきり、どちらも何も言わなかった。


風が、髪を撫でていく。城下の灯が、ひとつ、またひとつと消えていく。


「日の入りだな」


「はい。空を見れば、時計がなくても合わせられるので」


「なるほど。……よく考えたな」


「八百年前の人が考えたことです。わたしは、入口を緩めただけで」


「それでも」


彼はそう言って、腕を伸ばし、クラリスを引き寄せた。


彼の胸にうまる。呼吸が近い。


「クラリス」


「はい」


「毎日、必ずやる。忘れない」


「……忘れたら怒ります」



彼は少しだけ笑って、それから、ずいぶん長いこと、そのままでいた。






翌朝の中庭で、十騎が並んだ。


ジルヴェスターは黒い甲冑を着けて、いつもと同じ顔で笑っていた。誰にも、懐の石のことは言わなかった。


出立の合図の前、彼は一度だけ、こちらを見た。


そして、右手で、外套の胸のあたりを軽く叩いてみせた。


クラリスは、頷いた。


門が閉まる音がして、蹄の音が遠ざかっていく。


——今日の日の入りから。


胸の前で、自分の石を握りしめた。


まだ、温かくならない。

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