密書
それは、それからしばらく経った、普通の日だった。
ヴィルスからの報せが届いた。
使者はいなかった。
南の街道の宿場町で、商隊の荷にまぎれて城まで運ばれてきたのだという。差出人の名も、封蝋の紋もない。ただ、油紙に二重に包まれた一枚の紙だけが、宿の主人からオズヴァルトの手に渡ったらしい。
軍議の間に、その紙が広げられた。
「奥様。……これは、王太子殿下の筆でございますか」
ハーゲンに問われて、クラリスは紙に顔を近づけた。
見慣れた字だった。几帳面で、線の終わりをわずかに払う癖がある。子どものころ、机の隅に置かれた覚え書きで、何百回も見た字だ。
「……兄のものです。間違いありません」
紙は粗く、端が不揃いだった。インクも薄い。シェルナの王太子が使うようなものではない。兄がどういう状態でこれを書いたのか、そればかりが気にかかった。
文面は短かった。
『帝国は、アルダーンの近年の伸長を看過せず、戦を仕掛ける模様。
リアンツァとの会合を設けたい。
前に遭遇した谷にて。次の満月の翌日。
供は十人まで。
王が自ら来ること。それが向こうの条件だ。』
それだけだった。
証しになるものは、何もない。誰の裏書きもなく、日付もない。
「——ふざけている」
最初に口を開いたのは、ディートリヒだった。
「これのどこを信じろと。差出人の紋もない紙切れ一枚で、陛下に国境の外へ出ろと言っております。しかも、いま我々に向けて戦の支度をしている国ですぞ」
「奥様が、筆跡を認めておられる」
ラウレンツが言った。
「筆跡など、真似られます。あるいは——書かされたのかもしれん」
部屋が、静かになった。
クラリスは、膝の上で手を握った。
粗い紙、薄いインク、急いだ字。兄が身を隠しているなら、こうなる。けれど、捕らえられて書かされているのだとしても、同じ字になる。
兄とユアンの顔が浮かんで、思わず目を閉じた。
「仮に本物だとして」
ハーゲンが低く言った。これまで聞いたことのない声だった。
「リアンツァと会合?と。……本気で仰っているのか」
「ハーゲン」
「私の祖父は、国境の祭りで死んでおります」
彼は、卓の一点を見たまま言った。
ディートリヒが、かぶせるように続ける。
「八百年でございます。祖父も、父も、私も、リアンツァに知り合いを殺されている。去年の祭りでも、うちの若いのが二人。……あれと同じ卓につけと仰る。あの国は、生まれるときからして、裏切りで始まっているのですぞ」
「やめろ」
ジルヴェスターの声は、大きくなかった。
それでも、部屋が静まった。
彼は、それまでずっと黙って紙を見ていた。指で、文面の一行をなぞる。
「谷、というのは、あの谷だな」
「……はい」
答えたのは、ハーゲンだった。
「川の陣があったところでございましょう」
「よく選んだものだ。」
「陛下」
ディートリヒが、身を乗り出した。
「まさか、お受けになるおつもりですか」
「行く」
即答だった。
「罠でございます。十騎で国境の外へ出て、そこにリアンツァの軍が待ち構えていたら、それで終わりです。……この国は、陛下なしでは立ち行きません」
ジルヴェスターは立ち上がって、壁の地図の前へ行った。
「考えてみろ。もしこれが罠なら、罠を仕掛ける理由は何だ」
誰も答えない。
「僕を殺すためか。だが、僕を殺しただけで国は潰れん。国を落としたいなら、峠から攻め込めばいい。向こうは半年も支度をしている。……わざわざ、こんな面倒な段取りを踏む必要がどこにある」
ジルヴェスターは目を鋭くして続ける。
「だいたい、あの谷は、こちらの峠からも入れる。十騎とはいえ、逃げ道はいくらでもある。今は幸いにも追跡の魔導石が多く設置されている。魔獣の心配もないだろう。」
ディートリヒは、口をつぐんだ。
「それに」
ジルヴェスターは、地図の北西を指した。
「ヴィルス殿は、帝国が動くと書いている。……これは、可能性が高い。今までの話を並べれば、リアンツァは何かを躊躇っていて、戦を起こしたくないと見るほうが筋が通る。……たとえば、帝国に脅されて、こちらへ戦を仕掛けさせられているとしたら」
ハーゲンもディートリヒも、何かを考えるように黙り込んだ。
クラリスは、ジルヴェスターの横顔を見ていた。
たった十騎で、罠かもしれない谷へ向かう。
そう思ったら、胸のあたりが冷たくなった。
軍議の間を出るとき、指先がまだ冷たいままなのに気づいた。
満月の翌日まで、あと九日だった。
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