準備2
エピソード25の兄という回が抜けてしまいました。そちらからお願いします
翌日の昼、クラリスは書庫で行き詰まっていた。
灌漑の式の、村ごとの調整だった。西部の五つの村は、それぞれ土が違う。砂の多いところ、粘土の多いところ、下に岩盤が近いところ。同じ式では動かない。かといって村ごとに別の式を書いていたら、日が暮れる。
一つの式で、土に合わせて勝手に変わる形にしたい。
そのための係数を、朝から四通り試して、四通りとも駄目だった。
頭の芯が痛くなってきて、羽根ペンを置いた。
「ルーク、少し外に出ます」
長椅子からの返事はなかった。寝ているらしい。
書庫を出ると、ニクラスが駆けつけてきた。それを見て、クラリスは申し訳なくなる。
「ごめんなさい、こんな用事に付き合わせて」
「何をおっしゃいます、奥様。王妃様の警護は騎士の誉れですよ!」
あまりに真っ直ぐに言われて、なんとも言えない気持ちになり、少し笑ってごまかした。
鍛錬場に出ると、音が変わっていた。
以前は二十人ほどが散らばって剣を合わせていた場所に、いまは百人近くがいる。隊列を組んで歩き、止まり、向きを変える。号令が飛ぶたびに、地面が一斉に鳴った。
ニクラスは隣で、その光景を嬉しそうに眺めている。この子は、人が増えること自体が楽しいらしい。
「これ、全部ですか。」
「いえ、これは半分以下です。砦に回されている隊がありますので。北東の峠に百、北西の峠に百。それぞれ、砦の整備をしながら詰めております」
クラリスは、討伐のときに泊まった町の砦と、灌漑の調査で遠くに見た丘の上の砦を思い出した。
数字を聞いても、実感は湧かない。ただ、目の前で百人が同時に足を踏み鳴らしているのを見ていると、その音のぶんだけ、確実に戦というものが近づいている気がした。
「ほかの一部は、いま橋の修理に回っております」
低い声がして、振り返ると、ハーゲンが立っていた。
「二十五日で仕上げます。城下から人を入れて、夜も動かしております」
彼は、鍛錬場の向こう——北の山が見える方角へ、顎をしゃくった。
「あの橋が使えるようになれば、砦から報せが来て、こちらが出て、着くまでが一日縮みます」
知らせが届くまでに二日、そこから援軍が着くまでに二日。四日かかるところが、三日になるということだ。
砦に置かれた百人は、その三日を耐えなければならない。
そういうことか、とクラリスはぼんやり思った。
書庫へ帰る廊下は、いつもより長く感じられた。
すれ違う顔が増えている。荷を運ぶ者、書き付けを抱えた者、甲冑の音をさせて歩く者。誰もが急いでいて、誰も彼女を見ていない。
ここへ来てから知り合った顔が、順に浮かんだ。リタ。オズヴァルト。ラウレンツ。ヴィム。ミラとカラン。そして、いま隣を歩いている、十六の騎士。
戦は嫌だな。誰にも、傷ついてほしくない。
そう思ったところで、自分にできることが何もないことに気づいて、胸のあたりがじわりと重くなった。
書庫の扉を開けると、埃と紙の匂いがした。
長椅子で、ルークがまだ寝ていた。
クラリスは机に着き、羽根ペンを取って、五通り目の係数を書きはじめた。
峠のことも、橋のことも、自分は大して役に立たない。
できることをしよう。そう思って、雑念を忘れて集中した。




