西部へ
ジルヴェスターは兄が旅立ってから、戦争に備えて忙しくしているものの、距離が近くなった気がした。
いつもなら夜遅く部屋に戻ると、クラリスに気づかれないよう長椅子で寝ていたり、寝台に入るときもこっそり入ったりしていた。それが最近は、眠っているクラリスに後ろから抱きついて、首筋に顔を埋めてくる。
そのたびに身体が熱くなって、心臓の音が大きくなるのだが、少しでもジルヴェスターを休ませてあげたくて、クラリスは寝たふりを続けた。
西部に泊まりで出かけると聞いて、ジルヴェスターはあれこれと予定を調整していたようだが、結局は難しかったらしい。
むしろ、結婚してからでいちばん忙しい時期だと言えた。騎士の配置、砦の整備、領主との折衝。日中に見かけても、いつも誰かと議論している。定期の軍議のほかには、まともに話す時間もなかった。
結局、ルークのほかに女騎士のミラをつけられ、三人で出かけることになった。
三人で城門を出て、一日中馬を駆け続けた。
肌寒い春も終わりを迎えつつあり、短い夏に移ろうとしている。西部にはなだらかな高原が広がっていたが、雨量は年中少なく、土は乾いていた。
翌朝から、クラリスは畑を見て回った。
「ここらの土は、砂が多いですね」
しゃがんで一掴みすくうと、指のあいだからさらさらと落ちていく。握っても固まらない。
「撒いた水が、そのまま下へ抜けています。……上の畑ほどひどい。斜面だから、なおさら」
「下は?」
ルークが訊いた。
「下は逆です。上から流れてきた水が溜まって、抜けない。根が腐りかけているものがあります」
同じ土地で、上は乾き、下は溺れている。それを同じだけ撒いているから、どちらも育たない。
「なるほど、魔法式以外にも詳しいことはあったんですね。」
いつもの嫌味は流し続ける。
「上は多く、下は少なく。……第二節を抵抗値で受ける形にしたのは、まさにこれです。土が硬く乾いているほど、水が抜けるまでの時間が長い。その差を式に読ませれば、勝手に配分が変わります」
ルークが、めずらしく感心したような息を漏らした。
「試してみますか」
クラリスは協力的なルークに嬉しくなり笑顔で頷く。
麦畑を見て回っているうちに、遠くの丘の上に、灰色の影が見えた。
石積みの塔だった。だいぶ古いようだ。
「北西の砦です」
昔の城の跡地だろうかと見ていると、ミラがそれに気づき話す。
手綱を引きながら、丘のほうを見る。
「峠の見張りのために建てられたものですが、もう五十年は使われておりません。今度、直すことになったと聞いております」
砦のさらに奥に見える北山脈を見る。確かあの山を越えると砂漠地帯だったはずだ。
「直すのはリアンツァを警戒してって言うことなのかしら?リアンツァが抜けるとしたら前に通った北東の峠なんじゃないの?」
地図を思い出しながら尋ねる。
「はい。そこに見える北西の砦の裏の峠を抜けてもラーゲン高原、砂漠地帯です。とても広い……あそこを軍が越えてきた記録はございません。荷馬車で一月かかりますし、水場もほとんどない。渡り切る前に、人と馬が干上がります」
「じゃあ、なぜ直すんでしょう」
「さあ」
ミラは首を振った。
「陛下がお決めになったことですので」
クラリスは、しばらくその塔を眺めていた。
砦の右側少し行ったところには街が見える。今日泊まる宿もその街にある。
昼を過ぎて、村の井戸端で休ませてもらった。
水を汲んでくれたのは、六十がらみの女だった。クラリスが王妃だと聞いても、そんなに驚かない。かわりに、じろじろと顔を見てきた。
「あんたが、外套の王妃様かい」
「……その呼び名、ここまで来てるんですか」
「来てるよ。うちの倅が騎士団にいてね。去年の冬、山で凍えずに済んだって手紙に書いてきた」
女は、ひび割れた手で杯を差し出した。
「そのぶん、水を飲んでいきな」
集まってきた村人は、皆おおらかだった。畑のことを訊くと、いくらでも喋る。上の畑は水が抜ける、下は腐る、去年は麦が半分しか採れなかった、その前の年はもっと悪かった。
「陛下には、いつも助けていただいてるからね」
年寄りの一人が言った。
「五年前の獣の年に、三日も泥をかぶって手伝ってくださった。王がだよ。……あんな王様、うちの国くらいのもんだ」
「そうそう。おまけに顔がいい」
「顔は関係ないだろう」
「関係あるよ。畑仕事の話題が増える」
どっと笑いが起きた。
クラリスは、杯を持ったまま、少しだけ胸を張りたくなった。
一人で孤独だったと言っていたジルヴェスターがみんなから愛されているのを知って、自分が褒められたかのように胸が熱くなる。
日が傾いてから、試作の板を持って畑へ戻った。
魔石を嵌め、乾いた斜面の上に据える。マナを通す。
一拍おいて、地面の何ヶ所かが、同時に湿った。
上の乾いた土には長く、下の湿った土には短く。撒く量が、勝手に変わっている。
「……動きました」
「動きましたね」
ルークが、腕を組んで畑を見ていた。
「これ、あと何日か置いて、根の張り方を見たいです。それから、村ごとに土が違うので、村ごとに調整が要ります」
「ということは」
「また来ます」
ルークが、深いため息をついた。
「僕はもう来ませんからね」




