灌漑の魔法式
兄が発ってから、城が少し広くなった。
同じ廊下を歩いているだけなのに、腕を取る手がないというだけで、ずいぶん違う。三日いただけの人が抜けた穴が、思ったより大きい。
だからというわけでもないが、クラリスは書庫に籠もった。
兄の置いていった綴じの解けかけた冊子——南の国の水魔法の一種である灌漑の式は、思っていたより手強かった。中心から外へ展開する組み方が、根本から違うのだ。普通の水魔法であれば一点から水が流れるだけであるが、この式を使うと複数の点から同時に水が流れる。ただ、このままだと使用する魔法量が多すぎる。池に石を落として波を広げるように書かれているからだ。
それに、このままではどんな場所に対しても同じだけの水が流れてしまう。
三日かけて、ようやく第二節を書き換えた。水量ではなく、土の抵抗値で受ける形にする。乾いた土ほど多く、湿った土ほど少なく撒く。理屈のうえでは、動く。
「奥様。それ、何に使うんです」
長椅子から、ルークが訊いた。
クラリスはペンを止め、少し間をおいてから答える。
「いえ、別に……」
「なるほど。奥様はまた趣味で魔法式開発をやっていただけですね?」
クラリスは、ずけずけと図星をついてくる憎たらしい魔法使いを睨みつけた。
「奥様。せっかくその小さな頭をフル活用なさるのであれば、アルダーン西部に広がる麦畑のために使ったらどうです」
クラリスは目を丸くしてルークを見た。
根本的に怠惰なこの魔法使いが、魔獣の追跡や戦争に向けた準備でずいぶん忙しくしていることは知っている。だから期待していなかったのだが、また手伝ってくれるとでもいうのだろうか。
ルークは頭の後ろを掻きながら続けた。
「その展開式だと、触媒式に落とすのも難しいでしょう。そのあたりは僕がやりますよ。……一度、西部の土地でも見に行きますか?西部には広大な王国直轄領があるので試すのはできますよ」
「でもこのみんなが忙しい時期に…」
「奥様がいたところで何ができると言うのですか。奥様には奥様ができることをやればよろしい」
そこまではっきり言われてムッとしたが、全く反論できなかったこともあり、次の日ジルヴェスターに申し出た。
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