兄の土産
「では、書庫を見せてくれる約束だったね」
話が終わるなり、ヴィルスはそう言って、当たり前のようにクラリスの腕を取った。
「兄様、歩けます」
「知ってる」
離してくれる気配はなかった。
廊下に出ると、兄は歩調をこちらに合わせてきた。半歩前を歩いて、角ではさりげなく先に曲がる。子どものころ、シェルナの廊下を二人で歩いたときと、まったく同じ歩き方だった。十八年ぶんの癖というのは、抜けないものらしい。
「で、どうなの。ここの暮らしは」
「うまくやってます」
「ほんとに?」
「ほんとです」クラリスは、少しだけ胸を張った。
「公務、月に四つあるんですけど、ちゃんと全部出てます。先月は月の祭りで祝詞を読みました。二千人の前で」
「お前が? 祝詞を?」
ヴィルスが足を止めた。妹の顔をまじまじと見る。
「噛まなかったの」
「噛みません。古い言葉だったので、むしろ読みやすくて」クラリスは満面の笑みを見せる。
「……そう」
「あと、貴族の奥様方とのお茶会も、月に一度あります。最初は二往復で会話が終わってたんですけど、コツを教わりまして。相手に喋らせるといいんです。皆さん、自分の領地の話をしたがるので」
「誰に教わったの、それ」
「騎士の方に」
ヴィルスは、しばらく黙って歩いていた。
「……そう」
クラリスは横目で兄を見上げた。翠の目が、廊下の先を見ている。表情は穏やかなのに、どこか、遠くを見る目だった。私がアルダーンに迷惑をかけずにやっていると分かって安心してくれただろうか。
「兄様?」
「いや。……ちゃんとやってるんだなと思って」
「やってますよ。ふふん」
「その、ふふん、はやめなさい」
「はい」
やめたが、口元は緩んだままだった。ヴィルスも笑ったが、その笑い方が、いつもより少しだけ静かだった。
「シェルナにいたころは、夜会に出せば壁際で式を書いていた子だったのに」
彼は前を向いたまま続けた。
「……知らないうちに、いろいろあったんだな」
その一言だけ、明るくなかった。
クラリスは、ヴィルスが私がちゃんとうまくやっているという話をどうして喜んでくれないのか分からず、何と返していいかわからなく、結局、何も言わなかった。腕を取る手が、少しだけ強くなった気がした。
書庫の扉を開けたとき、ヴィルスは初めてクラリスの腕を離した。
「……ああ」
そう言ったきり、しばらく動かなかった。
天井まで届く棚。奥へ奥へと続く列。細い窓から落ちる光の筋の中で、埃がゆっくりと回っている。紙と革と、古い匂い。
「クラリス」
「はい」
「お前、ここに毎日来てるの」
「はい」
「……道理で痩せるわけだ」
「関係ないでしょう」
奥の長椅子から、間延びした声がした。
「客が来ると、埃が舞うんです」
ルークだった。上着を丸めて枕にしたまま、片目だけ開けている。
「魔法師長のルークです」クラリスは紹介した。
ヴィルスの目が、一瞬だけ、値踏みするような色を帯びた。それは本当に一瞬で、次の瞬間にはいつもの人当たりのいい笑顔になっていた。
「はじめまして。シェルナのヴィルスです。妹がお世話になっております」
「どうも。本当に世話ばかりしていますと言いたいところですが。」といい、そのまま背中を向けた。
一応兄さまは隣国の王太子だ。怠惰な態度に申し訳なくなったが、ヴィルスは気にしていなそうだった。
そこで、ヴィルスは、外套の内側から布に包んだものを取り出した。
「そうだ。土産があるんだ」
包みを解くと、綴じの解けかけた古い冊子が出てきた。羊皮紙が四つ折りにされ、紐で留めてある。
開いて、クラリスは息を呑んだ。
式だった。それも、見たことのない組み方だ。節の並びが、シェルナのものともアルダーンのものとも違う。左から右へではなく、中心から外へ向かって展開している。
「これ、どこの」
「南の小国のひとつ。海沿いのね。去年、使節で行ったときに、市場の古物商が投げ売りしていた。……読めないから安かったよ」
クラリスは、その場に立ったまま頁を繰りはじめた。
中心から外へ展開する式。起点がひとつではない。複数の点から同時に同じものを起こす形だ。何のために——ああ、そうか、水を撒く式だ。畑に。一箇所から流すのではなく、面で撒くために。
「兄様、これ、灌漑の式です。しかも、うちの水はけの式と組み合わせたら、土の乾き具合に合わせて撒く量を変えられます。ここの第二節を、水量ではなく抵抗値で受けるようにすれば、たぶん自動で——」
「クラリス」
「はい」
「まず、座ろうか」
気づけば、入口で立ったまま喋り続けていた。
長椅子のそばの卓に、二人で腰を落ち着けた。ヴィルスは当然のようにクラリスの隣に座り、椅子をさらに半分ぶん寄せた。
クラリスは頁を広げ、指で追いながら説明を続けた。兄が横から覗き込み、時々「そこは?」と訊く。読めないくせに、訊きどころが的確だった。妹の指が止まったところを、正確に拾ってくる。
「ここは、なぜ止まったの」
「わかりません。まだ」
「わからないところが、いちばん面白いんだろう」
「そうです」
二人で頁に顔を寄せていると、長椅子のほうから、独り言のような声が流れてきた。
「……陛下が哀れですね」
クラリスは顔を上げなかった。ルークの独り言はいつものことだ。
「奥様は、今つけてらっしゃるエメラルドのネックレスも、特注の生地のドレスの一件も、僕は一度も奥様から聞いたことがない。洗濯場のヘルミーネから聞きました。北の鉱山のとびきの石を織り込ませたとかいう、あの大層なやつです。ご本人の口からは、ひとことも」
「……はあ」
「ですが、その綴じの解けかけた古紙のことは、たぶん今夜の食事でも話されるでしょうね。三回は」
「なんの話ですか」
クラリスは顔を上げた。
ルークは天井を見ていた。誰にともなく喋っているという顔で、しかし明らかに、こちらに向かって喋っていた。
「いえ。世の中には、贈るものを間違えている方が多いという話です」
「間違えて?」
「ええ。高いものを贈れば喜ぶと思っている方が。……なにも、僕のことではありませんが」
「……はあ」
「陛下がおかわいそうだ」
意味がわからなかった。ドレスの話と古紙の話が、どう繋がるのだろう。生地はたしかに立派だったし、着心地も良かった。特に文句はない。
首をかしげていると、隣で、兄が小さく笑った。
見上げると、ヴィルスは腕を組んで、たいそう満足そうな顔をしていた。
「わかるよ」
「何がですか」
「いや。私はずっと知っていたということだよ」
「だから何がですか」
「クラリス。お前は式を読んでいなさい」
日が傾くころ、ヴィルスは頁を閉じさせて、妹を立たせた。
書庫を出て、廊下を歩きながら、彼はしばらく黙っていた。
角をひとつ曲がったところで、足を止めた。
「クラリス。さっきの三つ目の条件だけど」
クラリスは、兄の顔を見上げた。戦争が始まればクラリスはシェルナに帰るという条件を思い出す。
さっきまでの明るさが、そこにはなかった。翠の目が、まっすぐにこちらを見ている。
「聞いた。山に入って、魔獣に襲われかけたそうだね」
答えようがなかった。
「これから先、もっと危ないことが起きる。獣どころではなくなるかもしれない。……そうなったときは、お前を返してもらう。これは、陛下と交渉する話じゃない。私が、お前に言っている」
「兄様」
「わかっているよ。お前は嫌だと言うんだろう。さっき言われたばかりだ」
彼は少しだけ笑った。困ったような笑い方だった。
「それでも言う。……お前は、私の庇護下にいるべきだ。ずっとそうしてきたし、これからもそうしたい」
クラリスは、その言葉を頭の中で二度なぞった。
庇護下。
同じ言葉を、この半月で二度聞いた気がした。ひとつは、寝台の端で、笑いながら言われたものだ。きみを僕の庇護下に置いておきたいんだ、と。
「……あの、兄様」
「なに」
「陛下も、同じことを言っていました」
ヴィルスの片眉が、わずかに上がった。
「同じこと?」
「はい。庇護下に置いておきたい、と」
「……ほう」
「男の人って、みんな同じことを言うんですね」
言ってから、クラリスは首をかしげた。
「兄様」
「なに」
「わたし、ちゃんとやってますから」
「……知ってる」
ヴィルスは、それだけ言って、また妹の腕を取った。
離してくれる気配は、やはり、なかった。




