密談3
その後二人はワイバーンの話、刻印の話に移っていた。
クラリスは、ワイバーンの話以降をほとんど聞いていなかった。
さっきから、急に別のことが頭に引っかかっていたのだ。戦争やリアンツァや魔獣増加の話ではなくて、もっと小さいこと——のはずだった。
「クラリス?」
兄に呼ばれて、顔を上げた。
「あ、すみません。あの、関係ない話かもしれないんですけど」
「なに」いつものクラリスを見てヴィルスは笑いながらため息をつく。
「刻印の、字のことなんです」
四人がこちらを見た。
「番号だというのは、前に読みました。ただ、あの字の書き癖が、ずっと引っかかっていて」
クラリスは、卓の上に指で線を引いた。
「古代記法は似通っていることが分かりましたが、少しずつ違うんです。アルダーンは母音の位置が右にずれます。シェルナは音の切り方が独特で。リアンツァのものは見たことがありませんけど、たぶんまた違う崩れ方をしているはずです」
「それは、ユアンが道中でも言っていたな」ヴィルスが言った。
「アルダーンの崩れ方じゃない。シェルナでもない。だから最初は、リアンツァのものかと思いました。地名も刻んであったので、そう考えるのが自然でしょう」
「違ったのか」ユアンがいう。
「わかりません。リアンツァの記法を見たことがないので」
クラリスは正直に言った。それから、少しだけ言いにくそうに続けた。
「ただ、あの崩れ方を、わたし、一度だけ見たことがあるんです」
「どこで」
「婚礼です」
ジルヴェスターの動きが、止まった。
「祝詞の書き付けを、司祭様がお持ちでした。あのとき手元が見えたので、なんとなく目で追っていて。古い言葉だったので、面白くて。……あの字と、刻印の字の崩れ方が、今思えば同じでした」
「……神殿の」
「神殿の使う古代語は、帝国の古代語と類似しているはずですね。数百年以上前に総本山を帝国内に移していますし」
ユアンがさらりと言い、ヴィルスは大きくため息をついた。
クラリスは目を瞠る。
「……でも、あの刻印には、トリムードと書いてありました」
言ってから、自分でおかしなことを言っている気がした。
「字は神殿…帝国のもので、地名はリアンツァのものです。ちぐはぐじゃないですか」
「ちぐはぐでございますな」
ハーゲンが低く言った。
「リアンツァが魔獣を管理しこちらに仕向けているなら、わざわざ自国の地名を彫る意味がございません。捕らえられれば真っ先に露見する。……彫るとすれば、読ませたい相手がいる場合だけとも言えます。」
「帝国が我々に読ませたかった、か」
ジルヴェスターの声は、平坦だった。
クラリスは、膝の上で手を握った。鍛錬場の朝のことを思い出していた。番号だけで管理はできるはずなのに、なぜ生まれた場所まで彫るのだろう——引っかかりは、そこにあったのだ。
「では、トリムードは、ただの目くらましだと」ハーゲンが唸る。
「そう考えると、いろいろ通ります」ヴィルスが頷いた。「帝国は、我々にリアンツァを疑わせたかった。……ディートリヒ殿でしたか。あの方が剣の柄に手をかけた、と伺いましたが。まさに、その反応が欲しかった可能性はありますね。」
「まあどこまでを狙ったものかは推測止まりだ。我々にリアンツァと戦わせたかったのか、それとも、刻印が露見したときに帝国が疑われずにすむようなただの目くらましだったのかは分からない。そもそも、文字が帝国の文字だったからといって、帝国が黒幕とも特定はできないだろう。」
ヴィルスは、テーブルに残された水をぐっと飲むと続ける。
「私たちはこれからリアンツァに向かい王太子派閥との接触を試みます。アルダーンに来て、帝国への疑念も明確になりましたし、リアンツァの王太子派閥は少なくとも魔獣については無関係である可能性が高いことが分かった。彼らが戦の準備をする理由、それを遅らせている可能性の真偽について探ってこようかと」
長い沈黙だった。窓の外で、鳥が鳴くのが聞こえた。
やがて、ジルヴェスターが息を吐いた。
「……ヴィルス殿。ひとつ、確かめてもよろしいか」
「どうぞ」
「これだけのものを、一週間馬を潰して運んでこられた。また、さらに協力されるという」
ヴィルスは、表情を変えなかった。
「そうですね」
「ここまで助けて頂く理由をお伺いしたい」
クラリスは、思わずジルヴェスターを見た。
ヴィルスは、しばらくジルヴェスターを見ていた。
そして、笑った。今日いちばん、腹の底から可笑しそうな笑い方だった。
「……まいったな。妹が世話になっている家の主人に、こういう言い方をされるとは」
ヴィルスは、しばらく黙っていた。それから、初めて少しだけ、言い方を選ぶような顔をした。
「うちが小国だからです。帝国が本当に力を付けているのであれば、我々のような戦力のない小国に生きる道はない。ですが…正直に申し上げれば後から思いついた理由です」
ヴィルスが一呼吸置く。
「ジルヴェスター殿には隠し事はできないでしょう。こちらからの依頼は三つあります。」
ジルヴェスターは、指を組み直した。
ヴィルスは指を三本立てた。
「ひとつ。獣の刻印について、そちらで判明したことは、すべてうちにも回していただきたい。うちには読める者がおりませんので、正直、こちらは一方的にいただく話になります」
「構わない」
「ふたつ。もしリアンツァ…もしくは帝国と事を構えることになった場合、シェルナは兵を出せません。出したところで足しにもなりませんし、出せば真っ先に潰される。……ですが、道は貸します。南の街道は、そちらの糧道になります。そのかわり——戦がどう転んでも、シェルナは自国の中立を主張します。表向き、こちらとは無関係でいさせていただきたい」
「妥当だ」
「みっつ」
そこで、ヴィルスは一度言葉を切った。
明るい顔のまま、目だけが、まったく笑っていなかった。
「戦争になった際には、妹は返して頂きたい」
部屋が、静かになった。
クラリスは、自分の名前が出たことに気づくのに、少し時間がかかった。気づいてから、何か言おうとして、口が動かなかった。
ジルヴェスターは、答えなかった。
答えずに、しばらく妻のほうを見ていた。それから、ヴィルスに向き直った。
「その三つ目は、不可能だ」
「……ほう」
「妻の身の安全を心配しているのであれば、それは、僕が、僕の妻に対して負っているものです」
ヴィルスの片眉が、わずかに上がった。
ユアンが、いつのまにか窓の外を見ていた。クラリスは、自分の膝の上で、両手を握ったり開いたりしていた。
「……ねぇ」
震える手を、もう片方の手で押さえた。
「ヴィルス兄様。わたしは、アルダーンの王妃です」
顔を上げた。
「戦争になったら、私はこの国の人たちと一緒に戦います。」
自分の声が、思ったより部屋に響いた。
ヴィルスが、こちらを見た。
翠の目に、いくつもの色が順に浮かんでは消えた。悲しみ、驚き。それから、感心のようなもの。最後に残ったのは、どう見ても嬉しそうな何かだった。
「……そうか」
それだけだった。
短い一言なのに、クラリスは、幼いころの兄をそこに見た気がした。
ヴィルスは椅子を引いて、立ち上がった。もう話は終わり、という合図だった。
「陛下。三つ目は、取り下げます」
彼は肩をすくめて、それから、いつもの明るい顔に戻った。




