兄
こちらの話が抜けてました。すみません。
(すみません、こちらも抜けてまして追加しております。)
その夜は、よく眠れなかった
魔人。
八百年前に滅んだ、おとぎ話の側のもの。神の遣いと呼ばれるエルフと同じで、実在を疑うことすら誰もしない類の言葉だったはずだ。それを、あの部屋の全員が当たり前の顔で議題にしていた。
アウレリア聖国、という名も、久しぶりに聞いた。
大陸の西の外れにある。八百年前、アルダーンと共に戦った魔人と戦った聖女の血を引く民が興したとされている。
あの国の者は、生まれつき特別なマナを体に取り込める体質を持つという。だから聖騎士は、剣ひとつで魔獣の群れを薙ぐと言われているし、回復魔法のようなものも使えるという。
もっとも、クラリスは実物を見たことがない。彼らは滅多に国を出ないし、出ても神殿の巡礼にしか関わらない。
寝返りを打ちながら、クラリスは天井を見ていた。何だか自分がおとぎ話の世界に陥った気持ちになり眠ったのは、たぶん夜明け近くだった。
その後数日たった日の午前、リタが部屋へ駆け込んできた。
「クラリス様! いらっしゃいました!」
「え、今日? まだ三日先だと」
「馬でお越しになったそうです! もう門の外に!」
支度は半刻でされた。髪を結い上げられ、今やアルダーンの特徴といえる美しい光沢のある生地でできた青の衣装を着せられ、廊下を急ぐ。中庭へ出たときには、ちょうど内門が開くところだった。
蹄の音が、石畳に響いた。
思っていたより、ずっと少ない一団だった。馬が二十騎ほど。馬車もなく、荷も最小限で、全員が旅装のまま。王太子の来訪というより、早馬の一行のようだった。
先頭に、栗色の髪が見えた。
クラリスは、ジルヴェスターと並んで白い階段を下りた。並んで歩きながら、隣にいるジルヴェスターが、いつもの微笑みを完璧に整えるのがわかった。
一行が止まる。
ヴィルスは、こちらを見つけた瞬間、馬からひらりと下りた。
そして、そのまま駆けて、思いっきり抱きしめた。
「クラリス!」
鎧は着ていなかったが、黒のチュニックの金具がが顔に食い込む。息ができないほど強く抱きしめられ、ヴィルスの手が背中に食い込んでいる。
「ヴィルス兄様….」
「久しぶり。会いたかった。……元気? いや元気じゃないな、痩せてる。痩せてるよね? 顔に赤い跡ができてるじゃないか」
「そんなことは。….この跡は兄様のせいで」
「痩せてる。何を食べてるの。ちょっと待って、顔をよく見せて」
両手で頬を挟まれ、上を向かされた。翠の目が、まっすぐに覗き込んでくる。クラリスと同じ形の目だった。
「……日に灼けてる」
「山に行ったので」
「山?」
「あの、それは、あとで」
ヴィルスが片眉を上げた。何か言いかけたが、そこで彼は、ようやく状況を思い出したらしい。
すっと、クラリスから離れた。
そして振り返り、深く、完璧な礼をした。
「ご無沙汰しております、アルダーン王陛下。この度は、突然の来訪をお許しくださり、感謝申し上げます」
切り替えの速さが、いっそ見事だった。さっきまでの慌ただしさが嘘のように、静かで、隙のない王太子の顔になっている。
「よく来られた、ヴィルス殿」
ジルヴェスターの微笑みは、寸分も崩れていなかった。崩れていないのに、クラリスにはなぜか、いつもより一枚厚い気がした。
「予定より、早いですね」
「馬で飛ばしてまいりました。おかげで一週間で着きましたよ」
「一週間? よっぽど妹ぎみにお会いしたかったとみえますね。」
「ええ。近ごろは両国の交易が増えたぶん、街道もずいぶん整備されておりますので。……もっとも」
ヴィルスは、そこで軽く肩をすくめた。
「三日目の宿場で、荷を狙われかけました。人が増えれば、集まる者も増える。治安のほうは、そろそろ手を入れられたほうがよろしいかと」
「ご忠告と情報助かります。」
「いえ、余計なことを。あの道が使えるようになったこと自体が、この五年の変化でしょう。私が子どものころは、峠を越える商隊など年に数えるほどでした」
クラリスは横で聞きながら、兄に感心した。この人は、褒めながら注文をつけて、注文をつけながら相手を立てる。どうしてこんなに話す能力に私と差があるのかしらと考えながら、ふと周りをみる。
お迎えで出ていた侍女たちがジルヴェスターとヴィルスが二人揃っているのををみて、顔を赤くしていた。
「積もる話もありましょうが、まずは昼食を」ジルヴェスターが階段のほうへ手を向けた。「一週間の早駆けのあとです。話は、腹を満たしてからで」
「ご配慮、痛み入ります」
ヴィルスは礼を返し、それから、ジルヴェスターに並んでる歩き出す。
並んだ拍子に、後ろのほうから声がかかった。
「姫様。おひさしぶりです」
振り返ると、ユアンが馬を引いて立っていた。外套は埃で灰色になっていて、頬が少しこけて見える。それでも、笑うと猫のように、頬に斜めの皺ができた。
「ユアン!」
「……いや、驚いた。ずいぶん、変わられましたね」
「ふふ、結構体力がついたのよ」
クラリスは久しぶりに緊張が解れるのを感じ、自然と笑みがこぼれた。
ユアンはじっとクラリスを見ながら、クラリスの乾燥した手のあたりで止まった。
ユアンは何かを言おうと手を伸ばしたがすぐに引っ込めて、「ではのちほど」と言うとヴィルスを追いかけた。
ユアンの目線の先に、ジルヴェスターがいて、ほんのわずかに目線細くなったことに——クラリスは、気づかなかった。




