野営
出発してから山道は、想定よりずっと険しかった。前回は身軽な格好での行軍だったが、荷馬車の通れる道ではない。岩が張り出した細い区間に来るたび、隊は止まり、馬から荷を下ろし、人の手で運んで、また積み直した。五十騎の行軍とは、半分は荷運びなのだと、クラリスは初めて知った。あたりは寒く、霜が積もり手は凍えていたが、荷物を運ぶたびにうっすらと汗をかいた。
道中、前回置いた魔道具との距離を簡単な土魔法で測りながら、地図を確認し、決めた場所に石に見える魔道具を設置していく。土を指でつまんで確かめるクラリスの横で、騎士が黙って穴を掘る。埋めて、マナを通して、板の反応を確かめて、次へ。三つ目あたりから、誰も何も訊かなくなった。彼女が屈むと穴が掘られ、彼女が頷くと隊が動く。それだけの、静かな連携ができあがっていた。クラリスは、前よりも魔法量が少し増えた感じがした。以前なら二十すべてにマナを流せばくたくたになったはずだが、十個を稼働させてもまだまだ動けるのを感じていた。
昼すぎの休憩で、ラウレンツが馬を寄せてきた。
「様になってきましたね、奥様」
「そうですか?」
「ええ。……陛下も、少し安心しておられるでしょう。あの方は、心配事を顔に出さないだけで、抱えている量は人一倍ですから」
ジルヴェスターの話にクラリスは思わず聞き入った。
ラウレンツは、前を行くジルヴェスターの背中を見ながら、少しだけ声を落とした。
「陛下が即位されたのは、六年前です。先王陛下が急に倒れられて。……その前から、この国は楽ではありませんでした。ここ十年ほどで魔獣が目に見えて増えて、農村の被害が絶えない。畑が荒らされ、人的被害もでて、問題が山積みになっていく最中に、王が死んだ。二十歳そこそこで、あの方は、それを全部引き受けたんです」
クラリスは、前を行く背中を見た。
「昔から、できた方でした。頭が切れて、剣も強くて、誰にでも公平で。陛下が進めてきた繊維産業も想像以上に拡大している。だから民も貴族も、あの方を疑わない。……ただ」
ラウレンツは、そこで少し笑った。
「ただ、ずっと、お独りでやってこられた。誰にも頼らずに。最終的な判断はすべて陛下がされるものですから。……我々はね、奥様。あの方を支えたいんですよ。ずっと、そう思って剣を握ってる連中ばかりです、ここにいるのは」
それだけ言うと、彼は馬を離していった。クラリスはもう一度、前を行く彼を見た。大きな黒馬の上で、背筋はまっすぐに伸びている。絵物語の挿絵から抜け出してきたような姿だった。あの人でも、孤独を感じることがあるのだろうか。手綱を握ったまま、ぼんやりとそんなことを考えた。
しばらく崖沿いの道を進んだところで、先頭のジルヴェスターが手を上げ、隊が止まった。
「——リンドヴルムだ」
彼は馬を下り、音を立てずに崖の縁へ寄って、下を覗いた。クラリスも少し離れた岩陰から見下ろす。
二十メートルほど下の岩場に、翼のない小型の竜がいた。ワイバーンよりずいぶん小さい。そのかわり尾が長く、赤い棘が無数に並んでいて、岩のあいだをゆっくりと這う姿は、遠目にも嫌な光り方をしていた。
「下に巣があるようですね。二匹見えます」ルークが崖下へ目を細めた。「僕はここで、万一のためにシールドを張っておきます」
ジルヴェスターは無言で頷き、指を二本立てて、後ろの騎士たちに小さく合図した。
次の瞬間、クラリスは自分の目を疑った。
ジルヴェスターを含む三騎が、馬に乗ったまま、崖から消えたのだ。
ヒュッ、と喉が鳴った。落ちた——ようにしか見えなかった。慌てて縁へ身を乗り出すと、三騎は落ちてなどいなかった。斜面のわずかな出っ張りを、岩から岩へ、跳ぶように拾いながら駆け下りている。どうすれば馬であんな芸当ができるのか、まるでわからない。ただ、先頭のジルヴェスターの黒馬だけが、他の二騎より一段速かった。
リンドヴルムが気配に頭をもたげたときには、もう遅かった。
白い光がひとつ走って、一匹目の首が落ちた。ジルヴェスターは着地の勢いを殺さぬまま斬り抜けていて、残る一匹が尾を振り立てる間もなく、左右から回り込んだ二騎に仕留められた。
崖の上から下まで、数えるほどの呼吸のあいだの出来事だった。
クラリスは、止めていた息をようやく吐いた。隣でルークが、張りかけたシールドを、使われないまま面倒くさそうに畳んでいた。
野営地は、日が落ちる前に決まった。
ジルヴェスターが選んだのは、キリの樹の群生する、ゆるい窪地だった。「今夜はここだ。見張りは半分でいい」と彼が言い、ハーゲンが頷いた。騎士たちの肩から、目に見えて力が抜けた。
天幕が張られ、火が焚かれ、鍋がかけられた。
干し肉と根菜のスープに、炙った肉。
クラリスが器を持って座る場所を探していると、「クラリス、こちらへ」と呼ばれた。ジルヴェスターが、焚き火のいちばん近い丸太を、空けていた。
火の近くに座り暖かいスープを飲むと、冷えた指がほどけていく。肉は少し硬かったが食べれない硬さではなかった。ふうふう冷ましながら硬い肉を食べているところをジルヴェスターは何とも言えない表情でみていた。
少し離れた火のまわりから、ミラとカランの声が、切れ切れに聞こえてきた。
「——見た? 今日の崖のやつ」
「見た。跳ぶ前に回り込んでるのよ、あの方。ほんと、絵になるったら」
くすくす笑う声。クラリスは、スープを口に運びながら、自分の胸の奥が、ほんの少しだけ、ざらりとしたのに気づいた。
事実を言っているだけだ。剣も顔も完璧なのは、本当のことだ。なのに、他の人の口からそれを聞くと、少し面白くないなと感じ、その独占欲が恥ずかしくなった。
食事が終わるころ、ルークが器を持ったまま、隣に来た。
「奥様。さっき騎士に使った薬見せてください」
脇に置いてあった鞄をいそいそと開けると持ってきた薬品を出した。ルークが火の光に当てたり匂いを嗅いだりしている。
「……とてもよくできていますね。ただ、シイラギの葉は次からは炙ってから粉にしてください。」
「問題がありましたか?」
気づけば、二人の会話は始まっていた。ルークは薬草学も相当精通していた。
「ルーク」
ジルヴェスターだった。焚き火の明かりで、逆光になっている。
「妻を働かせるな。もう夜だ」
「働かせてるのは僕じゃなくて好奇心ですよ、陛下。ご覧なさいこの目、止まりませんよ」
「お前が話しかけなければ止まる」
声は、いつもどおり軽い。軽いのだが、どこか、いつもより角があった。ルークは器を持ったまま、表情を隠さず心底驚いた顔をした。
「陛下も女性に執着する方だったんですね。ご安心ください。僕はもっと清楚な女性が好きなので….」
と話しかけたが口を注ぐんだ。
「おやすみなさい、奥様。続きは明日」
ルークはそそくさと立ち上がり、自分の天幕のほうへ消えていった。残されたクラリスは、板を膝に置いたまま、ジルヴェスターを見上げた。
「あの、まだ全然、平気ですけど」
「駄目だ。明日も早い。さっさと寝ろ。」
そして彼は何か言いかけて、やめた。
「いや。おやすみ、クラリス」
髪をそっと撫で、髪に唇を落とし、そのまま、男たちの野営の側へ、歩いていってしまった。
クラリスは、その背中を見送った。
焚き火が爆ぜて、火の粉が上がる。もらった特等席は暖かいのに、彼が行ってしまうと、火の反対側が、すこし寒いような気がした。
食器を片付け、クラリスは女性用の天幕へ入り、冷たい水で痛くなったおしりと太腿を冷やす。
明日は、北へ進む。流れの向きの、その先へ。
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