北へ
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「立てるか」
クラリスが顔を上げると、ジルヴェスターが、自分の外套の袖で、彼女の頬を拭った、魔獣の体液が、飛んだままになっていたのだ。生温かかったものが、乾いて突っ張りはじめていた。
「あ……はい。立てます」
「無理はしなくていい」
拭った手を離すとき、指先が、ほんの一瞬だけ、彼女のこめかみに触れ、それだけで優しさが伝わりいたたまれない気持ちになった。
ジルヴェスターはじっとクラリスの目を見ていたが立ち上がり、騎士たちのほうへ歩いていった。
「もう少し奥まで進むぞ」
ジルヴェスターは黒馬にひらりと飛び乗り、向きをかえた。「ハーゲン、妻が動けなそうならお前の判断で先に麓まで戻れ。騎士数人をつれていけ。」
「はっ」ハーゲンは返事をするとクラリスの近くまで馬を運ぶ。クラリスの馬も連れている。
貢献するどころか足を引っ張ってしまったのと、死を間近に感じた恐怖から泣きそうになるのを我慢した。ただハーゲンは想像したような怒ったような表情は見せなかった。
倒したゴブリンの耳の後ろからは同じく管理番号のようなものが確認された。
三頭目の番号を確かめ終えると、隊はふたたび北へ動きはじめた。
網に残った反応から、群れの残りが逃げた方向は北の方面だった。そのほかにも網に引っかかった魔獣がいたことを頭の中で整理する。
馬上で、クラリスは、その方角を見ていた。
地図を思い出す。いまは北山脈のアルダーン側にいるがこの山脈をこえ東に向かうとリアンツァだ。さらに北西にはヴァルガリア帝国の領土が、大きく広がっている。
魔獣たちはただ山に住んでいるだけ、という可能性もある。ゴブリンであれば山に巣を作るはずだ。北の山脈は深い。人の入らない谷が、いくらでもある。そこで自然に殖えて、餌を求めて南へ下りてくる——それだけのことかもしれない。
隊は、その後慎重にもくもくと進んだ。先に見えるジルヴェスターは凛として、暗い道の中でも時々差し込む日差しを受け金色の髪が光っているように見えた。
途中で、ガムルの群れとも出くわしたが、騎士たちはもう慣れていて、声も上げず淡々と剣に光を乗せて片づけていく。ルークが前に出るまでもなかった。
クラリスは、その戦いを、ハーゲンのすぐそばで見ていた。
——また、周りが見えなくなっていた。
さっきのことを思い返すと、恥ずかしさで頬が赤くなる。
網の端を伸ばそうとして、二歩、前へ出た。あのとき、近くにいたゴブリンもハーゲンの声も、何ひとつ入っていなかった。式に夢中になると、いつもそうだ。幼馴染のユアンに馬鹿にされるくらいな可愛いものだった。ジルヴェスターの冷たい怒りに満ちた彫刻のような顔を思い出す。もう明日からは連れていってもらえないだうか。
そんなことを考えていると突然行進が止まった。
「近くには、もういませんね」
ルークが、馬上で目を閉じたまま言った。彼の探知は、範囲こそ狭いが、精度は高い。
「群れは、全部、北へ抜けたか」ハーゲンが唸った。
「そのようだ。…今日追うには遠すぎる。ここから先は、山が深い」
ジルヴェスターが、北の山脈を見上げた。稜線が、夕日で赤く染まっていた。その向こうは、もう影になって見えない。
「今日は、ここまでだ」彼は言った。「一度、麓まで戻る。このまま踏み込むには、支度が足りない」
ジルヴェスターが首を振り、目で隊の向きを変えることを指示すると、隊が向きを変え来た道を戻りはじめる。クラリスは、最後にもう一度北の稜線を振り返った。
腿の内側もお尻もかなり痛くなっていたため正直ほっとした。
麓の町に着いたのは、すっかり暗くなってからだった。
アルダーンの北の端、山へ入る者が最後に立ち寄る、宿場町だ。ただ最近は掃討のため国王含む王国騎士団がしょっちゅう来るため賑わいはじめていた。
街の少し外れたところには古いが大規模な砦があり、戦争が多く行われたときの守護神だったという。
騎士団のために宿が開けられ、厩が空けられ、篝火が焚かれた。
ジルヴェスターとハーゲンら幹部たちはしばらく話し合いしていたが、その晩のうちに、明日からの方針を決めたようだ。
その後、軍議は宿のいちばん広い部屋で開かれた。今度はクラリスも呼ばれた。もう討伐には呼ばれないと思っていたため、ほっと胸を撫で下ろした。それともこの会で帰れと言われるのだろうか。もう一度だけお願いしてみようと心の中で思った。軍議にはリーダークラス以上の十名ほどが参加していた。
「2日後に、もっと奥まで進む。今日の倍は進むことになるだろう。となると、日帰りはできないので山中で、野営することになる。方向は魔獣の進む方向を見ながら決めるが、北東に向かうことになるだろう」
ジルヴぇスターが地図を広げ、方向を指しながら説明する。
「五キロ間隔で置くとすると、この山だと、どう魔道具をおいていくか」ハーゲンが口を開いた。
ハーゲンはクラリスを見ていた。クラリスは最初は自分に質問されたと思わず一瞬固まった。だが、すぐに気づき慌てて答え始める。クラリスは、広げた地図に指を這わせた。「まず、川沿い。さっきの探知では詳しくはわかりませんでしたが、この小川に沿って何か一定のモノがいた気配がありました。ただ20キロ先ぐらいまで進む必要があります。それから…魔獣が避けていた場所があって、何だろうとずっと思っていたのですが…たぶんキリの樹です。彼らはあの匂いが苦手なのでしょうか。そうなるとこの木が多いところは魔道具の設置は避けていいかもしれません」
クラリスは誰からも言葉が発せられないことに気づいて目線を地図から上げる。みんなが困惑した表情で見ていた。
ジルヴェスターを見ると、彼のグレーの瞳にも驚きと困惑の色が見えた。
「…なるほど、これは驚いた。クラリスの探知魔法は普通の魔法とはだいぶ異なるようだ」
それからしばらく手を顎にあて考えてて続けた
「….これでは確かに連れていくことの反対はできなそうだ。キリの樹か。言われてみると思い当たる節はあるな。」
「奥様が想像以上に優秀で助かりましたよ。連れていってもらえないとぎゃあぎゃあ泣き喚かれても困りますから」
ルークのこの言葉で私の能力が試されていたことに気付いた。討伐に加えることに反対していたのは間違いなくジルヴェスターのようだった。
ハーゲンは感心したように目を開き、地図を改めてみていた。
数日間、次の討伐の準備が進められた。
野営のための、食糧。飼葉。天幕。薪。町の店を叩き起こして、買えるだけ買い集める。ハーゲンが、荷の割り振りを差配していた。
クラリスは、追跡の石を、二十個ぶん、布に包んで数えた。ひとつずつ、式が正しく刻まれているかを確かめる。空間の追跡ができるように改良もした。魔石が緩んでいないかをしつこいくらい確認した。
また、女性騎士を紹介された。ミラとカランだ。二人とも背は低めだが肩幅がしっかりしている。2人ともアルダーンで育ち5年前に王国騎士団に入ったらしい。アルダーンは実力さえあれば女性も騎士として取り立てられるそうだ。
「今後野営のときは私たちがご一緒させていただきます!奥様の探知魔法拝見しました。とても素晴らしくて…。あとこの騎士服も。とても暖かく女性騎士はみんな感謝しております。」
クラリスは二人から伝えられた言葉に驚き、改めて自分の持っていた知識が活かされて役に立ったことを実感し胸が熱くなる。目頭が熱くなるのを感じた。どうやら最近涙もろいようだ。
出発前夜、クラリスは宿の部屋で薬草の処理をしていた。クラリスは宿の中でも広い部屋を割り当ててもらい、そこには暖炉と小さな机と椅子2つ、ベッドの横に作業用の大きな机があった。作業用の机の上に持ってきた本を広げ、傷薬、化膿止め、胃腸薬を作り丁寧に小瓶に移す。それぞれ5人分だけであるが作成できたので、それを小さな鞄の中に並べていく。
しばらくするとクラリスの部屋に訪問客があった。ドアを開けるとジルヴェスターが少し疲れた顔で立っていた。
「寝る時間に申し訳ない。少し話をしていいか?」
ジルヴェスターはそう言って、部屋の中に入り部屋の簡易な椅子に腰掛けた。ジルヴェスターと2人で会話するのは討伐に出かけてから始めてであり、五日ぶりくらいであった。クラリスも隣の椅子に腰を掛ける。先にもう一度謝るべきかどうか悩んでいると、しばらく下を向いていたジルヴェスターが顔を上げ話し出す。
「すまない、気づいているかもしれないがクラリスの討伐の参加に反対していた。今後の討伐は夜営もあるし、長い乗馬は想像以上に女性には大変だ。今の魔獣も普通じゃない。前のように守れるかどうかも分からない」
クラリスは黙って聞いていた。今回は強く反対されれば従うつもりだった。自分の魔法式の改良ばかりを優先できない。
「だだ、勝手なのは分かっているがクラリスのその能力が必要だ。今まで何も解明できてなかったことが、君が来てから動きだした。こんな危険なことに巻き込むことはこの討伐だけだと思って協力してくれるとありがたい。」
クラリスは驚いてジルヴェスターを見た。今までシェルナ王国のころからずっと勝手をさせてもらっていて、誰かに期待されることなどなかったため、思いもかけないジルヴェスターの言葉が信じられなかった。その言葉をもう一度頭の中で反芻しているとだんだんと嬉しさが込み上げてくる。
思わずジルヴェスターの手を取り、答える。
「もちろんです陛下。今回は危険な行為は絶対しませんのでご安心ください。ぜひとも同行させてくだい。」
ジルヴェスターは、クラリスの頬に手を伸ばし、安心したような少し困ったような顔をした。
「ありがとう。きみの護衛はちゃんとつける。くれぐれも無理をしないように頼む。明日は早い。今日はゆっくり寝てくれ。」
そういうと立ち上がり、クラリスの長い栗色の髪に手を伸ばしならがら、屈んでおでこにキスを落とし、そのまま背を向け出口に向かった。
扉が閉まると、クラリスは顔が赤くなってないか部屋の鏡を見る。部屋が暗くてよく見えない。少しでもこの騎士団としての役割を求められたこと、ジルヴェスターに期待されたことがとてつもなく嬉しくて、ベッドに飛び込むようになだれ込み、大きな枕を抱きしめた。そしてそのあともしばらく興奮で眠ることはできなかった。




