終戦
クラリスが目を覚ますと、天幕の中だった。
布越しの光が、赤みを帯びている。もう日が暮れはじめているらしい。毛布の匂いと、薬草の匂いと、焚き火の煙の匂い。帝国の城の前の拠点だとと分かった。あの黒い城の中ではない。
起き上がると、体のどこにも、痛みがなかった。
脇腹に手を当てたり、息を大きく吸ったりしてみる。何も引き攣れない。足首を回してみる。動く。腫れも、熱も、消えている。それに、服が変わっていた。破れて肩からずり落ちていたローブではなく、洗いたての清潔な木綿の寝衣に誰かが変えてくれたようだ。
ふと横を見ると、ルークがいた。
いつもの長いローブを着たまま、天幕の壁に背中を預けて、胡座をかいて、寝ている。顎が胸に落ちて、切れ長の目は閉じたまま、口が少し開いていた。あの拠点の窪地で、一晩じゅうシールドを張り続けていた顔と、同じ疲れ方をしている。
旧い友に、久しぶりに会ったような気持ちになった。クラリスは思わず、手を伸ばしてその肩を揺らした。
「ルーク! 無事だったんですね。……怪我は、ありませんか?」
ルークははっと目を覚まして、一瞬、その綺麗な切れ長の目を大きく
見開いた。それから、ゆっくりと、いつもの気だるげな顔に戻る。
「……ああ。奥様、起きましたか。体は、大丈夫そうですか?」
その言葉で、クラリスはルークが回復魔法をかけてくれたことに気づく。
「はい。……ありがとうございます。本当に」
笑顔で言うと、ルークは頭を、ぽりぽりと掻いた。
「……陛下を、呼んできますね」
彼は立ち上がって、天幕を出ていった。
一人になると、訊きたいことが、いっぺんに押し寄せてきた。あの広間は、どうなったのか。セラフィンは。ディートリヒは。あの司祭たちは。輪は。外の戦は。それを全部、胸の中で並べて、クラリスは、ジルヴェスターを待った。
外で、駆け足の音がした。
垂れ布が跳ね上がって、ジルヴェスターが、ばたばたと入ってきた。彼はクラリスを見ると大股で寝台の前に来て、ぎゅっと抱きしめた。鎧は外していて、シャツ越しに、心臓の音が聞こえる。
それから、すぐに腕を緩めた。
「……すまない。痛くなかったか」
言いながら、両手で、クラリスの体に触れ、痛みがないか、怪我はないかを確かめていぬ。肩、腕、脇腹、腰、膝、足首。
その手が、寝衣の上から、ひとつひとつ確かめていくのが、クラリスには、どうにも落ち着かない。顔が、赤くなっていく。
「だ、大丈夫です。……もう治していただいたようで」
「そうか」
彼は最後に足首を持ち上げて、回してみて、それから離した。
「……他の、皆さんは、無事ですか?」
「ああ。皆、無事だ。ラウレンツとチェーザレは、いま、獣の生き残りを追っている。……追わなくてもいいんだが、このままだと、周りの村に被害が出るからな」
「……クロア卿は」
ジルヴェスターの眉が、ほんの少し動いた。
「生きている。だが帝国の城に戻った。ワイバーンを引きつけるために聖騎士が一人離れたのを覚えてるか?彼が戻ってないらしく、聖騎士何人かを連れて先ほど出て行った」
白い光に向かって羽ばたいて行ったワイバーンは五、六匹はいたはずだ。一人で相手をするにはいくら聖騎士でも厳しいだろう。クラリスは顔を歪める。
そんな様子にジルヴェスターは小さくため息をつく。
「銀の輪はきみのおかげで守れたよ。だが、セラフィンの神聖力で封印を高めたものの、あれは一時的なものらしい。いま聖騎士たちが神聖力をあて続けてるがどうなるかまだ分からない」
ジルヴェスターが”クロア卿”ではなく”セラフィン”と呼んでいることにクラリスは驚いた。いつの間にか距離が近くなったようだ。
そして、クラリスは、天井に浮かんでいた文字を思い出した。封じる式と、壊す式。あの式が本物なら、永遠に保たせる必要はない。壊せばいい。壊せる。——けれど、それを、いま、ここで、言っていいのだろうか。
「……あの。ルークと、クロア卿と、少し、話せますか」
ジルヴェスターは、しばらくクラリスの顔を見ていた。手を伸ばして、クラリスの髪を、一度だけ撫でる。
「……まずは、食事にしよう。待っていろ」
そう言って、立ち上がった。
食事と言われ、確かにずっとまともなものを食べていない気がした。だが、天幕を出ていく背中を見送りながら、クラリスは、また、式のことを考えはじめていた。
あれが本当に壊す式なのかどうかは、慎重に読まなければならない。壊し方も。帳面に写したものを、もう一度、一節ずつ。万が一にも、間違えるわけにはいかない。間違えれば、何が起きるのか、誰にも分からないのだから。
それなのに——あの式を思い出すと、顔が、勝手に緩んでしまう。
輪を輪で作る。始点を終点に繋ぐ。錘を中心に置く。あんな組み方があるなんて、誰が思いつくだろう。あの一節一節の、迷いのなさ。あれを組んだ聖女は、きっと、組みながら笑っていたに違いない。そう思うと、また、口の端が上がってくる。クラリスは、両手で顔を覆った。こんな戦の最中に、顔が緩めていたら異常者だと思われるだろう。
だが、クラリスにはやはり気になることがあった。
あの封じる式には、限りがない。輪の中に入れられるものの量に、上限の節がなかった。魔人一人を封じるだけでなく、使い方によっては、何でも、いくらでも、あの中に入れてしまえる。人でも、魔獣でも。あれは、聖女が魔人を封じた道具であると同時に——誰かが使えば、いくらでも危険になる、魔道具だ。
そんなことを考えていて、ふと顔を上げると、ジルヴェスターが立っていた。
木の椀を、両手に持って。湯気の立ったシチューが、そこに入っていた。いつから、そこにいたのか分からない。彼は、指の間から口元を緩めているクラリスを、じっと見下ろしていた。
「……楽しそうで、何よりだ」
低い声だった。
「僕は、こんなにもきみの虜になっているというのに。……きみは、僕といないときのほうが、楽しそうだね」




