帝国攻め9
扉から、ジルヴェスターが駆け寄ってきた。
床に膝をついて、上半身を起こしているクラリスの背中に、そっと手を回す。壊れ物を扱うような、慎重な手つきだった。指が肩に触れ、それから背中に触れ、どこが二日後の夕方、城に馬で着くと、どうも城内が騒がしい。外門の近くにいたラウレンツを捕まえた。
「聖国の使者が、ちょうど到着されたところです」
聖国?軍議で名前だけ聞いた、あの国だ。クラリスは礼もそこそこに、嫌な胸の高鳴りを抑えつつ内門へ馬を向けた。
内門の中には、白い馬に乗った騎士がいた。灰色の外套。目深にかぶった頭巾で、顔は見えない。裾に、細い金の縫い取りがひと筋だけ入っている。一人だけであるが、陰鬱とした雰囲気が溢れ、曇り空を強調している。
オズヴァルトが迎え出ていたが、騎士はそれを無視して、通る声で言った。
「アウレリア聖国より、アルダーン王へ」
抑揚のない声だった。人に向かって話しているというより、壁に向かって言い渡しているような声だ。
しばらくして、ジルヴェスターが早足で現れた。革の筒を受け取ると、騎士は一礼し、そのまま踵を返す。
「待ってくれ。返書を用意しよう」
「不要とのことです」
王に対して、それだけ。クラリスは思わず息を詰めた。
騎士は馬に手をかけ、それから、ほんの一瞬だけ、こちらを見た。
目が合ったのは、瞬きひとつぶんだった。灰色の、感情の読めない目。表情のない白い顔は一瞬であったが、目に焼き付き、心臓が一つ大きく鳴った。
蹄の音が遠ざかっても、クラリスは手綱を握ったまま動けずにいた。
隣に馬を寄せていたルークが、口を開いた。
「聖国の聖騎士は、めったに国を出ない。昔からああらしいです」
「どうしてですか」
「さあ。聖女の血筋を守ってるんですかね」
「聖女」
「八百年前、魔人と戦ったという。あの国の連中は、生まれつき体に妙なものを溜め込む。マナを、外から取り込めるんです。僕らみたいに自分の中から出すんじゃなくて、周りにあるものを引き込んで使う。普通の魔法とは、根本的に仕組みが違います」
外から取り込む。クラリスは、自分の掌を見た。式は、自分の中のマナを形にするものだ。その前提が違うなら、式の組み方も、根本から違うことになる。好奇心から、聖騎士が去っていった方を見る。
ルークはその様子をちらりと見てため息をついたが、城内へ馬を進めながら続けた。
「それから、神殿とは別ですからね。あそこと聖国は、根が同じで、仲が悪い。数百年前に神殿は聖国を出て、いまは神殿の総本山は帝国にあります。聖国は西の外れで、八百年前のものをそのまま抱えて動かない。向こうから見れば、神殿は本家を出ていった分家です」
婚礼の祝詞を読んだ司祭の、あの字を思い出す。あの字と同じものが、魔獣の鱗の裏にあった。神殿と帝国が繋がっているなら、その本家である聖国は、何も関わりが無いと言えるのだろうか。
ルークが大きくため息をつく。
「さて、すぐに軍議でしょう。支度をしたほうがいいです」
言い終わるなり、さっさと馬を兵士に渡して去っていった。
クラリスも慌てて馬を下り、埃だらけの服を見下ろして、急いで部屋に戻った。折れているのかを探るように、ゆっくりと動く。
クラリスは、内心、しまった、と焦っていた。輪と、帳面と、散らばった魔石。何をしていたのか、一目で分かる。けれどその焦りは、目の前のジルヴェスターの顔を見た途端、消えてしまう。頬に血がついている。髪が乱れている。鎧が凹んでいる。それでも、目の前にいる。生きて、ここにいる。胸の奥に、温かいものが広がって、自然と、笑顔になった。
「……はい。足は、もう回復魔法を少しかけたので。あとは、ちょっと、痛みますが」
言いながら、彼の体を、目で確かめる。戦いは、終わったのだろうか。片方の肩当てがない。頬の血は、乾いている。腕も、脚も、動いている。大きな怪我は、していない。それを確かめて、ほっと胸を撫で下ろした。撫で下ろした途端、緩んだ体じゅうが、また痛みはじめた。
小さな呼吸を続けるクラリスの膝から、帳面が滑り落ちた。
ジルヴェスターの目が、それを追った。クラリスの掌に、汗が滲んだ。彼が拾い上げるより早く、クラリスは天井をちらりと見る。扉から差し込む光は朝日なのか昼の光なのか分からなかったが、天井に写っていた文字は、もうほとんど見えなかった。よかった、と思った。思ってから、何がよかったのか、自分でも分からなかった。なんとなく、話すことが憚られて、口を閉じた。
目を戻すと、ジルヴェスターは、こちらをじっと見ていた。
それから、天井を見た。ゆっくりと。それから、クラリスが背中に回している手のほうを——そこに隠した、銀の輪を見た。
「……なるほど」
小さく、そう言った。
そして、とてつもなく優しい笑顔を、クラリスに向けた。
「深窓の美姫に、こんな怪我をさせてしまって、申し訳ない。君が壁の後ろに消えてから、僕の頭の中はその衝撃と苦しみで君のことだけしか考えられなかった。……だが、姫にかかれば、一介の騎士に過ぎない僕のことなど、忘れてしまうほど些細なものなのだろう」
「……」
「訊きたいことは、山ほどある。だが、いまは、ここでゆっくりしている時間はない。……それを持って、とにかく抜けよう」
真顔で言われて、クラリスは、何も返せなかった。怒っているのか、呆れているのか、それとも本当に優しいのか、判じかねる笑顔だった。判じかねるまま、頬だけが、じわじわと熱くなった。
「……ディートリヒや、聖騎士の皆さんは?」
口を開いたと思ったら、別の騎士のことだったことに、ジルヴェスターは片方の眉をわずかに上げる。
「……皆、無事だ」
それだけ言って、彼はクラリスの足首を見て、それから顔を見た。
「立てなさそうだな」
答える前に、体が浮いていた。片腕を背中に、片腕を膝の下に。抱き上げられて、折れた脇腹が引き攣れて、クラリスは思わず目を閉じた。
「……すまない。少し、我慢してくれ」
彼は、痛みの出ないところを探すように、クラリスの体を抱え直した。それから、扉のほうへ、素早く歩き出した。
一歩ごとの規則正しい上下と、鎧越しに伝わる体温と、鼻先に触れる汗と血の匂いに、閉じた目の奥が、ゆっくりと重くなっていく。
クラリスは、いつのまにか、眠りに落ちていた。
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