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帝国攻め8

壁の向こうは、急な階段だった。


背中が石の段の角に叩きつけられて、息が肺から一気に押し出される。声も出ない。次の段が肩にぶつかり、その次が腰に、膝に、肘に。どこに何が当たったのか分からないまま体が転がって、石の角が同じ場所を二度、三度と打った。暗闇の中で上も下も消えて、自分の悲鳴が石に跳ね返って耳に戻ってくるのを、他人の声のように聞いていた。輪だけは、それに傷つけたらどうなるのか分からず、必死に抱え込むように持つ。


体が平らな床に叩きつけられて、転がるのが止まる。


しばらく、息ができなかった。胸の中で何かが引き攣れて、吸おうとすると、脇腹に熱い針を突き立てられたように息が止まる。浅く、浅く、喘いで、やっと肺に空気が入った。身体中熱く、頬に触れている床だけが氷のように冷たい。


なんとか、顔を上げた。


真っ暗で、何も見えない。指先で床を探ると、冷たく滑らかな石の感触があって、その指も震えていた。クラリスは腕を動かして——動かした瞬間、肩から首筋にかけて、鋭い痛さが走る。——ポケットを手でまさぐり、小さな魔石を一つ探り当てて、灯火の式を使った。


掌の上に、小さな光が灯った。


浮かび上がったのは、何もない小さな部屋だった。石の壁と、石の床と、石の天井。落ちてきた階段のほうをなんとか振り返ると、その上はもう闇に塞がれていて、岩が詰まっているらしく、小さな石がころころと転がり落ちてきては、クラリスの頬に当たった。あの広間は、あの岩の向こうにある。ジルは大丈夫なのだろうか。そう思った途端、喉の奥が、締めつけられた。


起き上がろうとした。


肘をついて、体を持ち上げようとした瞬間、胸の右側に激痛が走る。視界が白くなって、床に戻った。冷たい汗が、こめかみを伝った。ローブは肩のところで破れて、ずり落ちている。露わになった肩は傷だらけで、冷えた空気が触れている。息を吸うたびに脇腹が焼ける。吐くたびに、軋む。肋骨が折れてるのかもしれない。


クラリスは、床に頬をつけたまま、ため息をついた。息を吐くだけでも、痛かった。


不安なのか、怖さなのか、痛みなのか、自分でも分からないまま、目に涙が溜まる。壁は、きっと神聖力に反応したのだ。輪に残っていた、セラフィンの力に。おそらく、司祭たちの隠された逃げ道か、何かだったのだろう。そこに、自分が落ちた。ぼんやりとそんなことを考えながら、握りしめたままの手を、ゆっくりと開いた。指が、固まっていた。その中に、銀の輪があった。傷一つ、ついていない。


この輪を、石の床に叩きつけたい気持ちになった。八百年も人を振り回して、聖国を閉ざさせて、帝国を狂わせて、いまは自分を、こんなところに落として。腹の中が煮えくりかえるどころか焦げているぐらいの気持ちだったが、投げて魔人が復活したらどうしようもない。クラリスは悔しい気持ちでぎゅっと握りしめる。


部屋を見渡すと、奥に小さな扉があった。


あそこへ行こうと、今度は、肘ではなく、掌を床について、ゆっくりと体を起こした。息を止めて。胸が軋むが、歯を食いしばる。それから、床に手をついたまま、膝を立てようとした。


だが、左足が、痛みで動かない。


見ると、足首が、靴の上からでも分かるほど、真っ青に腫れ上がっていた。触れてみるまでもなかった。触れなくても、脈打つたびに、そこだけが別の生き物のように、どくどくと熱を持っている。


クラリスは、ポケットに入っている魔石を、震える指ですべて床に出した。四つ。どれも、爪ほどの小ささだった。回復の式を使えば、これでほとんど残らなくなる。そうなれば、隠れる式も、壁も、何も組めないだろう。それでも——動けなければ、ここで終わりだ。ジルは、上にいる。あの岩の向こうで、キマイラと、司祭たちと。自分がここで座り込んでいて、何になるというのだろう。


足首に手をかざして、回復の式を使った。


淡い光が足首を包んで、腫れの熱が、少しずつ引いていく。どくどくと打っていた脈が、静まっていく。鋭かった痛みが鈍いものへ、鈍いものが重いものへ変わって、やがて、そこに足があるという感覚が戻ってきた。魔石が二つ、光を失って、ただの石になった。


——そのとき、手の中で、何かが光った。


銀の輪だった。


回復の光に応えるように、輪の内側が、淡く青白く光りはじめていた。クラリスは驚いて、それを見つめた。光は輪から静かに立ち上って、糸のように細く、天井へ向かっていく。天井に、何かを映している。クラリスは慌てて、灯火の式を消した。


暗くなった天井いっぱいに、文字が浮かんでいた。


びっしりと、隙間なく。古代語だった。輪の内側に刻まれたものが、光で天井に写し出されているのだ。クラリスは口を開けたまま、それを見上げた。青白い文字の列が、暗い石の天井の上で、水面の光のように、静かに揺れている。それは、いままで見たどんな古書の頁よりも、美しかった。


しばらく、痛みを忘れて、動けなかった。


それから、慌てて帳面を取り出した。肩から提げていた小さな鞄を枕にして、仰向けになる。胸が軋んだが、構わなかった。ペンを取って、天井の文字を、上から順に写しはじめる。手が震えて、最初の一行が歪がむ。


やはり、この輪は魔道具だったのだ。式の刻まれた、魔道具。聖女は神聖力を遊ぶように使った、とセラフィンが言っていたのをクラリスは思い出す。いや、むしろ、聖女は天才だ。この文字の並びを見れば分かる。物好きではこんなものは作れない。節の一つ一つに、迷いがない。


式は、あまりにも複雑で、完璧で、美しい。


クラリスは、たちまち夢中になる。初めて絵本を与えられた子供のように、蜜を見つけた蜂のように。折れた肋骨のことも、腫れていた足首のことも、上で起きているはずのことも、頭からすっきりと消えた。ペンが紙を走る音と、自分の浅い呼吸の音だけが響く。


どれくらい時間が経ったのか、分からない。クラリスは、天井の古代語を、一節ずつ読み解いていった。


最初の式は、封じる式だった。普通の式は始点から終点へと流れて閉じるものだが、この式には終点がなかった。始点が終点に繋がれていて、式そのものが輪の形をしている。中に入ったものは、出口を探して、永遠にその中を回り続ける——そういう作りだった。そして回り続けさせるために、輪の中心に、錘のような節が置かれている。錘があるから式は崩れず、回り続ける。輪を、輪で作っている。それだけで、クラリスは息を呑んだ。こんな発想は、読んできたどの古書にもなかった。


そのあとに、もう一つ、式が続いていた。


最初は意味が分からなかった。封じる式と同じ節を使っているのに、向きが逆で、ところどころに余計なものが挟まっている。横向きになって、脇腹を庇いながら、帳面に書き足していく。逆の向き。閉じた輪を、内側へ折り畳む節。折り畳んで、錘ごと、中心へ潰す節。——そこまで書いて、クラリスは、ペンを止めた。


これは、壊す式だ。


封じる式で閉じ込めたあと、この式で輪を内側へマナで潰せば、中に封じられたものは、輪ごと消える。壊れるのではなく、消える。そういうふうに、作られている。封印は、壊す前提で組まれていた。封じるだけの道具ではなかったのだ。封じて、それから壊す。二つで、一つの式だった。聖女は最初から、魔人を消すつもりで、これを作っていたのだ。


ペンを持つ手が、また震えていた。痛みのせいではなかった。


では、なぜ聖女は、壊さなかったのだろう。


クラリスは、天井の光を見つめたまま、考える。


壊す式を使うには、封じる式を組んだのと同じだけの力が要る。魔人を封じたあと、聖女にはもう、それだけの力が残っていなかったのかもしれない。それで、力が戻るまで、と持ち帰って——戻る前に、寿命が来た。あるいは、これはマナで壊れるようにできているから、聖女はマナを使えなかったのかもしれない。マナと神聖力は若干異なるはずだ。


それとも。


クラリスは、壊す式の、錘の節を、もう一度見た。錘ごと、中心へ潰す。錘が何であれ、一緒に消える。——中に、消したくないものが、あったのだろうか。まさか、魔人を消したくなかったのか?


そんなことを考えていたとき、突然、部屋の奥の小さな扉が、軋んだ音を立てて開いた。


眩しい光が、差し込んだ。


いつのまにか、朝になっていたのだ。天井に写されていた古代語が、その光に溶けて、消えていく。クラリスは眩しさに顔をしかめながら、帳面を胸に抱えて、起き上がる。誰が来たのか分からない。司祭かもしれない。輪を、背中に隠した。心臓が、また肋骨を叩いた。


扉のところに立っていたのは——ジルヴェスターだった。


金の髪が乱れて額に張りつき、頬には乾いた血がついている。鎧はあちこちが凹んで、片方の肩当てがなくなっていた。彼は部屋の中を一目で見渡して、床に散らばった魔石と、枕に使われただろう鞄と、帳面を開いたまま抱える妻と、破れて肩からずり落ちたローブと、真っ青に腫れた足首を、順に見た。


「クラリス! ……動けないのか? どういう状況だ?」



…クラリスは、顔が引き攣った。

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