帝国攻め7
扉の向こうに広がっていたのは、城の中とは思えないほど巨大な広間だった。
天井は高く、上には金色の複雑な彫刻が刻まれている。そこから吊り下げられた巨大なシャンデリアが、何百という蝋燭の光を磨かれた床に落としていた。壁には天井まで届く織物が掛けられ、その奥、広間のいちばん奥まったところに、フードを深く被った十人ほどの人影が、円になって立っていた。
人影が一斉にこちらを向き、ざわめきとともに円が崩れた。
セラフィンがそれを見て、すらりと剣を抜くと、抜いたと見えたときには走り出していた。
彼が何を見たのか、クラリスには一拍遅れて分かった。円の中心に石の台があり、その上に小さな銀の輪が置かれていたのだ。蝋燭の光を受けて鈍く光っている、腕輪よりも大きい銀の輪だった。八百年、聖国が守り続け、十年探し続けたものが、あんなに小さく、あんなに無造作に置かれている。
駆け出したセラフィンは風のように速く、全身から神聖力が溢れ、青白く光っている。灰色のローブが光の尾を引いて、広間の床を滑るように横切っていく。クラリスは、一瞬、時間が止まったように感じた。
司祭たちは慌ててシールドを何枚も展開し、それと同時に、一人が何かを唱えるのが見えた。
ジルヴェスターが広間をさっと見回して、叫んだ。
「セラフィン、魔獣だ!」
すると突然、広間の両側の壁が、内側から砕けた。石が弾け飛び、その向こうから巨大な獅子が二頭、吠えながら出てきた。人の背丈の三倍はある巨大な獅子で、その尾が蛇になっていて、首を持ち上げ牙を剥いている。キマイラだった。本でしか見たことのない魔獣がそこにいることが信じられず、息ができない。クラリスには、目の前で起きていることが、違う世界の絵のように見えた。
ふとジルヴェスターを見ると、剣を抜きつつクラリスを背中に隠しながら、心配そうに動けずにいた。クラリスは、自分のせいでジルヴェスターが前に行けないことに気づく。
「行ってください!」
自分でも驚くほど大きな声だった。ジルヴェスターは一瞬だけクラリスを見て、それから何も言わずに頷き、すぐに走り出す。その背中が離れていくのを見送りながら、クラリスは魔石を握りしめる。
二頭のキマイラはセラフィンを追っていた。けれどセラフィンは速かった。銀の鎖を壁の燭台に掛けて飛び上がり、キマイラの爪が足元の床を抉るのを空中で見下ろしながら体を捻って、背中を越えて向こう側に降りる。
そのとき、広間の横手にある小さな扉が開いて、帝国の兵が雪崩れ込んできた。階段を追ってきた数十人が、別の道を回って来たのだろう。彼らはキマイラを見た途端に悲鳴を上げて、来た扉へ押し合いながら逃げ戻ろうとした。けれど扉は狭く、後ろの者が前の者に詰まって、逃げ遅れた数人が獣の前脚の下に入った。骨の砕ける音が幾つも重なり、血が床に扇のように広がる。クラリスは吐き気が押し寄せ思わず口を押さえる。
キマイラが尾を振るたびに壁が削れ、前脚を振るたびに床の石が割れる。残った帝国兵たちは何と戦っているのかもはや分からず、剣を振り回すが、キマイラの尻尾や牙にやられていく。天井のシャンデリアが大きく揺れて、蝋燭の火が幾つも消えた。広間が少しずつ暗くなる。まさに地獄絵図だった。
後ろから駆けつけたジルヴェスターが、高く飛び上がる。
セラフィンを追う一頭の脇腹に、剣を深く差し込み、そのまま下へ斬り下ろす。獣が大きく暴れて振り返り、ジルヴェスターを睨む。切られた場所から血が噴き出している。噴き出しているのに、その傷が、見ている間に塞がっていく。クラリスの背中を、冷たい汗が流れる。
そのとき、ジルヴェスターを向いたキマイラが、吠えるために口を開けた。クラリスは一瞬、その奥に炎を見た。
ジルヴェスターが、危ない。
そう思った瞬間、クラリスの目は、頭の上で揺れているシャンデリアに向く。太い鎖と、それを天井に留めている金属の留め具。咄嗟に、土の式の応用を頭の中で構築する。硬さを緩める節を二つ、熱を通す節を一つ、留め具の一点に集める節を——式が、いままでにない速さで組み上がっていく。手が震えたが、クラリスは残りの魔石のうちいちばん大きなものを掌に握り込み、天井を見上げたまま、即座に式を展開した。
留め具が、赤くなって、溶ける。
シャンデリアが落ちた。何百という蝋燭と硝子と鉄の塊が獣の頭の上に降り、尖った鉄の枠が、キマイラの右目に深々と刺さった。獣が絶叫し、その口から炎が吐き出されて、狙いもなく壁へ、床へ、天井へと走った。一瞬蝋燭が消えてあたりは真っ暗になったが、すぐに織物が燃え上がり明るくなる。ジルヴェスターが転がって炎を避け、避けた勢いのまま横へ回り込んで、跳んだ。獣の頭より高く飛び、落ちてくる途中で剣が蛇の尾を根元から断ち、そのまま剣の向きが変わって獣の首に垂直に立ち、彼はそれを横になぐ。
あまりにも速い動きだった。見えたのは、獣が横に倒れて、動かなくなったところだけだった。クラリスは、自分が息を止めていたことに気づいて、大きく息を吸った。目に涙がたまるのを、手でごしごしと拭く。
もう一頭は、まだセラフィンを追っていた。
けれどセラフィンはもう、司祭たちの前にいた。獣が壁にぶつかって向きを変える隙に、光の膜を跳び越えて、円の中心に降り立ったのだ。フードの一人が慌てて台の上の輪に手を伸ばす。その腕が、肘から下で飛んだ。切り落とされた腕は輪を掴んだまま床に落ち、そしてセラフィンは剣を、輪の中心に突き立てた。
部屋じゅうが、青白く光った。
あまりの眩しさに、クラリスは目を閉じる。瞼の裏まで白い。神聖力が輪を通って、部屋のすべてに広がっていくようだ。
次の瞬間、キマイラが叫んだ。さっきまでの叫びとは違う、何かから解き放たれたような、ただの獣の叫びだった。
封印が、戻ったのだろうか。
キマイラはもうセラフィンを追わず、目の前のものを、手当たり次第に襲いはじめる。司祭を、逃げ遅れた兵を、壁を。もう魔術による制御が切れていて、野生に戻っているように見える。
ジルヴェスターは息を上げながらも、キマイラのほうに走り出す。
クラリスがふとセラフィンを見ると、彼は膝をつき、壁にもたれていた。青白い光は消え、輪を持った腕を抱えるようにして、動きが鈍い。あれだけの神聖力を一度に使ったために、動けないのかもしれない。すると、司祭の何人かがキマイラを避けながらも、セラフィンのほうに向かうのが見えた。
クラリスは、思わず走り出す。
「クラリス!」
後ろでジルヴェスターが叫んだ。
セラフィンは立ち上がり、輪を持ったまま、こちらへ走ろうとした。だが、その背中にキマイラの前脚が当たった。彼の体が吹き飛んで壁に叩きつけられ、石が砕けた。それでも彼は顔を上げて、クラリスを見た。
「——持って、逃げろ!」
輪が投げられた。銀色の弧を描いて、クラリスの手の中に落ちた。小さいが、驚くほど重く、掌が痺れるようだ。
受け取った瞬間、司祭たちがこちらを見た。三人、四人。フードの下の手に光が溜まっていく。キマイラのいない側を回って、まっすぐこちらへ来る。クラリスは後ずさったが、すぐに背中が石の壁に当たる。逃げ場がなかった。色々な式を構築し続けるが、何もいいものが浮かばない。
輪を握った手が、壁に触れた。
すると、壁が動いたのだ。
輪に残っていた青白い光が石へ流れ、石がそれに応えるように、音もなく内側へ沈んだ。そこに穴が開いた。寄りかかっていた壁が、なくなったのだ。
「へ?」
クラリスは、この緊張感のある状況に合わない声を最後に、暗闇に消える。
「クラリス!」
ジルヴェスターの声が、頭上で遠くなっていく。落ちていく視界の端に、暴れるキマイラと、崩れる天井の石と、穴の口が岩で塞がれていくのが見えた。
段々とクライマックスです。
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