八百年
ワイバーンの一件があってから、城の空気が変わった。
廊下ですれ違う兵の顔つきが硬くなり、軍議の回数が増え、ジルヴェスターの姿を見かけない日が続いた。骨置き場から古い魔獣の骨が掘り出され、鱗の裏がひとつひとつ検められているらしい、という話が、リタを通じて伝わってきた。
クラリスは、その多くには関われなかった。写しを取った刻印を書庫で睨むことはできたが、それ以上のこと——リアンツァがどういう国で、なぜ皆があれほど激しく反応したのか、その背景をうまく消化できなかったのだ。
知らないままでいるのも落ち着かなくて、その晩、彼女は書庫のルークを捕まえて、そのまま食堂へ引っ張っていった。
「僕は、人の多いところで食べるのは好きじゃないんですが」
ルークはそう言いながらも、ついてはきた。お腹ら空いていたらしい。
リアンツァ王国のことを何も知らない、などと、王妃が大勢の前で言えたものではない。ルークになら、面倒くさそうな顔はされても、馬鹿にはされないだろう。そう踏んで、食堂まで連れ出したのだ。
ところが、である。
騎士たちの使う食堂は、王族用の小部屋とはまるで違った。長い卓が三つ、湯気と声と、皿の触れ合う音でいっぱいで、クラリスが入口に立った途端、いちばん近い卓の何人かが気づいて、慌てて立ち上がりかけた。
「そのままで。……お邪魔します。少しだけ、隅を借りても」
そう言って端に座ったのが、間違いだった。王妃が食堂に来たというだけで、近くの騎士たちが自然と耳をこちらへ向けている。おまけに、向かいにはニクラスがいた。
小声で切り出したつもりだった。
「ねえ、ルーク。……リアンツァって、どういう国なの」
ところが、その一言が、思いのほか通ってしまった。
さっきまで賑やかだった卓が、すっと静かになる。ニクラスがパンを持つ手を止め、少し離れた席の騎士までが、話をやめてこちらを見た。
しまった、とクラリスは思った。こっそり訊くはずが、いつのまにか、卓ぜんぶに訊いてしまっていた。
「……いえ、その、たいした話では」
「奥様」
口を開いたのは、卓の端のヴィムだった。大男が、器を両手で包んだまま、こちらを見ている。
「お知りになりたいのでございますか。リアンツァのことを」
引っ込みがつかなくなった。ごまかすこともできたが、この顔ぶれを前にして、知りたくないと嘘をつくのも、それはそれで失礼な気がした。しかもヴィムの低い声は食堂に響き渡っている。
「……はい。恥ずかしながら、名前くらいしか、知らないんです」
言ってしまってから、開き直ることにした。どうせ、もう聞かれている。
「アンダールとの関係は良くないとは知ってますが、詳細は知らなくて…」
卓の空気が、すっと下がった。
「憎むに決まってるでしょう」
最初に口を開いたのは、ニクラスだった。いつもの、おどおどした喋り方ではなかった。
「あいつらは、卑怯なんです。毎年、国境で祭りがあって——形だけは休戦の儀式ということになってるんですが、実際はただの潰し合いで。去年は、僕の兄の同期が、あれで大怪我をおいました。約束を破って、後ろから斬られて」
「ニクラス」
ルークが、静かに名を呼んだ。
「お前が言っているのは、去年の話だ。八百年のうちの、いちばん端っこの一年だよ」
ニクラスが、口をつぐんだ。
ルークは、器の中のものをのろのろとかき回しながら、面倒くさそうに続けた。
「奥様。憎み合う理由を知りたいなら、順番に話しますが。話すと長いですし、聞いても気分のいい話じゃありませんよ」
「それでも、知りたいんです」
「では、いちばん古いところから」
彼は匙を置いた。
「八百年前、魔人戦争でいちばん血を流したのが、アルダーンです。魔人を東へ押し返して、広い土地を取り戻した。その土地は、取り決めではアルダーンのものになるはずだった。ところが、そこに住んでいた連中が、独立を宣言した。我らはアルダーンのものではない、と。それがリアンツァです」
「住んでいた人たちが、独立を」
「そう。しかも、その独立を後ろで支えたのが、当時はまだ小さな勢力だったヴァルガリア帝国です」
ヴァルガリア帝国…ヴィルス兄さんがいつも頭を悩ませてたのも帝国だった気がするとシェルナにいた頃を思い出す。
「アルダーンから見れば、命を懸けて取り返した土地を、住んでいただけの奴らに横取りされた、という話です。リアンツァから見れば、昔から住んでいた土地に、よその軍隊が乗り込んできて『解放してやった、だからここは我らのものだ』と言った、という話になる。どっちも、筋は通ってるんですよ。だから八百年、解けない」
ルークは頭の後ろで手を組み上を見ていた。
「渇水の話も、しますか」
しばらくして、ヴィムが低く言った。頼まれもしないのに口を開くのを、クラリスは初めて見た。
「三百年ほど前、ひどい旱魃の年に、上流のアルダーンが川を堰き止めました。自国の田畑を守るために。そのせいで、下流のリアンツァで、数え切れぬほどの者が飢えて死んだ」
「……ヴィム、詳しいのね」
「うちの家は、もとはその境の村にございましたので」
大男は、器を見つめたまま続けた。
「私の祖父の祖父の代の話でございます。あの旱魃で、村の半分が死んだと。子どものころ、婆さまから何度も聞かされました。川の水が、ある日ぱたりと止まって、それきり戻らなかったと。……村は、リアンツァ側でございました」
クラリスは、言葉を失った。
「私の家は、生き残った者がアルダーン側へ逃げてまいりました。だから今、私はアルダーンの兵をしております。水を止めた側の国で、水を止められた側の子孫が、剣を握っている。妙な話でございましょう」
ヴィムは、そこで初めてこちらを見た。
「ですが、奥様。私は、リアンツァを憎んではおりません。憎みようがないのです。私の半分は、あちら側でございますから。……ただ、それを口に出せる場所は、この城には、あまりございません」
卓が、静かになった。ニクラスが、さっきの勢いをなくして、うつむいている。
その沈黙を、うっかり破ったのは、またニクラスだった。
「……でも、いちばんひどいのは、百五十年前のやつじゃ、ないですか」
「ニクラス」
ルークが止めようとしたが、彼はもう口を開いていた。たぶん、場の重さに耐えかねて、何か言わずにいられなかったのだ。
「シェルナのお姫様が、リアンツァに嫁ぐことになって。輿入れの途中で、消えたんです。それきり、見つからなかった。リアンツァは、アルダーンが奪って殺したんだと言って、それで、また戦になって——」
そこまで言って、ニクラスは、ようやく気づいた。
自分が、誰に向かって喋っているのかに。
「……あ」
みるみる血の気が引いていく。
「奥様、あの、僕は、その、決して、奥様のことを」
「知ってるわ、その話」
クラリスは、笑ってみせた。私の先祖にあたる人は正直しらないひとだ。いざこざに巻き込まれたんだとしても、あまり何かを感じるものでもない。ただ、アルダーンの交友関係に迷惑をかけてしまったんだと申し訳なく感じた。
ニクラスが、うつむいた。周りの騎士たちも、決まり悪そうに目を伏せている。
「本当に気にしないで。私は辿り着いたんだから」
言いながら、クラリスは、匙の先で器の中をなぞった。
「さて、王妃様の歴史勉強会も終わったことだし、夕飯食べてもいいですか。」
ルークが皮肉に締めくくり、みんなも席を立ち始めた。
その夜、部屋へ戻ってからも、クラリスはなかなか寝つけなかった。少しずつ、みんなの輪に入れていることが嬉しい。ただ、まだシェルナからきた客人の扱いが抜けきれないことが少し寂しかった。
クラリスは寝返りを打って、目を閉じた。隣は、今夜も空いていた。ジルヴェスターは、まだ軍議なのだろう。グレーの瞳を思い出しなら眠りに落ちた。




