帝国攻め3
それから二日後の朝、ジルヴェスターから「今夜だ」と告げられた。
朝食のあと、クラリスは土手の上に登って、丘の上の城をじっと見る。あの日から一週間以上、肉を運ぶ道は断たれているといっていた。それなのに、城は何も変わっていないように見えた。不気味に黒に近い灰色の要塞が静かにそびえているだけだ。あの中で本当に獣が飢えているのか、それとも司祭たちが何か別の手を打っているのか、ここからでは何も分からない。クラリスは小さくため息をつく。
ふと下をみるとルークとラウレンツが話しているのが見える。クラリスはいそいそと土手を降りて二人のところに向かった。
「ルーク、ラウレンツ!もうすぐのようですね?」
クラリスは、なるべく明るい声で二人を見上げながら話しかける。ルークはその様子が呑気に見えたのか呆れた声で話し出す。
「奥様、これからあの城に潜入するということご理解されてますか」
クラリスは少しムッとしながら返す。
「も、もちろんです。でも後方だって、千頭も魔獣がきたら危険なんじゃないんですか?何か手立ては考えてるんですか?」
ラウレンツは、クラリスが騎士の心配をしていることが嬉しかったのか、笑顔で口を開いた。
「ご心配に及びませんよ、奥様。こちらは魔法師達が多くいますし、騎士達も本気では戦いません。奥に引き出せればいいんですから」
「でも、前みたいにマンティコアのような上位魔獣がいることも考えられるじゃないですか」
ルークは顎に手を当て、クラリスを見る。
「そうですねえ。それも考えられなくはないですが、むしろ高位魔獣は城の中にいるかと。城の中は土が無いですから土魔法はおそらく使えないですし、奥様は奥様の身を守ることだけを考えてください」
ジルヴェスターと同じようなことを言われてしまいクラリスは言葉に詰まる。隣ではラウレンツも激しく首を縦に振っていた。
そして、夕暮れとともに、六人は拠点を出発した。
道は一週間前と同じで、土手を越え、川に沿って北へ向かい、凍った葦の中を一列で抜ける。森に入ると、足元の落ち葉は霜で固まっていて、さらに滑りやすく、クラリスは一歩一歩慎重に足を進める。セラフィンは相変わらず速度を落とさず、クラリスは息を切らしながらジルヴェスターの背中を追った。
同じ岩陰に着いた。木々の隙間から、松明に照らされた正門が見える。あの日と同じ光景だ。
クラリスはここに来るのは二度目であったが、緊張なのか怖さなのか、手の震えが止まらなかった。息を大きく吸い込むと肺が凍るように冷たかったが、ゆっくり吐くと膝をついて、板を出し土の上におき、手を当てた。
土は硬い。一週間前とは比べものにならないほど、土が凍って締まっている。粉にするには、まず表面を緩めなければならない。式の冒頭に、土を解す節を一つ足す。それから粒を細かく、臭いを閉じ込める節を強く。魔石が、じわりと熱を持った。ほどなくして、六人の周りに薄い土の膜と獣の臭いが広がり、クラリスはようやく息を吐いた。
ジルヴェスターはクラリスの手を取ると、手袋についた土を丁寧に落とした。そして、また城を見た。
ちらりと、ジルヴェスターを見る。
彼は岩に片手をついて、端正な横顔を正門に向けている。門の扉、その両脇の塔、壁の上の兵の数、篝火の位置。隅から隅まで、一つずつ確かめるように、視線だけがゆっくりと動いている。
セラフィンも同じように門を見ていたが、ふと目を閉じると、窪みを背にして座り込み、首飾りをローブの下から出し、何か祈りのような言葉を早口に唱えていた。
——そのとき、後方から、車輪の音が聞こえてきた。
木々の隙間から目を凝らすと、荷馬車が数台、松明を掲げた兵に囲まれて、正門のほうへ近づいてくる。荷台に積まれているものは、あの死骸の山だった。兵たちは、門から三百歩ほど離れたところで荷馬車を止めると、荷台に油をかけ、火を投げ入れた。炎が一気に立ち上がる。それを確かめもせずに、兵たちは荷馬車を置いたまま、後方へ駆け戻っていく。
すぐに、臭いが広がる。
腐った肉が焼ける臭いではあるものの、脂が焦げて、肉が炙られる、あの匂いは香ばしく、クラリスは、自分の腹が小さく鳴ったことに気づいて、驚く。あんな死骸を焼いた臭いに、空腹を感じているなんて。一週間、干し肉とパンだけの日が続いていたせいかもしれない。
そんなことを考えていると、後方で誰かが風の式を唱えたようだ。ルークだろう。冷たい風が草原を吹き抜けて、焼けた肉の臭いを、丘の斜面に沿って上へ、上へと運んでいく。壁を越えて、城の中へ。
クラリスは、緊張で口の中が渇いていくのを感じながら、城を見つめた。
——だが、何も起きなかった。
城は篝火が静かに揺れているだけだ。時間が過ぎていく。反応がないのだろうか。魔獣は、もう飢えていないのだろうか。それとも、司祭たちが、抑え込んでいるのだろうか。
不安になって、もう一度ジルヴェスターを見る。
彼の瞳は、獲物を狙うように黒々としていた。城のどこか一点を、じっと見ている。
——次の瞬間だった。
城の中から、ワイバーンが、耳を裂くような声を上げて舞い上がった。十体、いや、それ以上。一週間前は城の上を回るだけだったあの影が、今夜は、城の外へ、まっすぐに飛び出していった。
それと同時に、城の内側から、魔獣の雄叫びが上がった。一頭ではない。何百という声が重なって、うねりのようになって、壁を越えて押し寄せてくる。
そして、正門が、内側から吹き飛んだ。
爆発のような轟音とともに、あの黒い鉄の扉が、蝶番ごと外へ倒れた。そこから、獣が溢れ出した。白いフェンリル。小さく群れて走るゴブリン。その後ろから、背丈が人の倍もあるオーガが、押し合いながら、扉の残骸を踏み潰して出てくる。どの魔獣の目も赤く血走り、飢えに苦しんでいるようだ。
すぐに後方から、弓が放たれる。何百というマナの矢が、獣の群れに降り注ぐ。先頭のゴブリンが次々と倒れ、その上をフェンリルが踏み越えて走る。倒れても、倒れても、後ろから押し寄せてくる。焼けた肉へ。その先の、馬と、人へ。
クラリスは思わず口を開け、恐怖で、背中を冷たい汗が伝った。
数百、いや、もっといる。門から吐き出される獣の列に、終わりが見えない。ルークは。ラウレンツは。チェーザレの兵は。あの群れを、本当に受けきれるのか。目の前の光景があまりにも大きくて、鳥肌が立った。
「奥様」
セラフィンの冷たい声が、その思考を断ち切った。
「あの門を、抜けます」
はっとして門を見ると、まだ獣が押し合うように出てきている。
「以前、フェンリルが目の前を通っても気づかれなかったと聞いています。……いまの魔獣は、食い物に頭がいっている。あのときより、なお気づかない」
淡々とした声だった。クラリスは、鳥肌を抑えながら、魔石を握り直した。式に、意識を集中させる。粉を、もっと細かく。臭いを、もっと濃く。獣の群れの中を、獣として通り抜けるために。手が震えていた。それでも、節は一つも間違えなかった。
ジルヴェスターが、そばに来た。
背中に、大きな手が置かれた。ゆっくりと、さすられる。
「何があっても、僕が守る。……安心しろ」
低く、短い声だった。見上げると、その灰色の瞳は、炎のように熱かった。
クラリスは、覚悟を決めるように、強く頷いた。




