帝国攻め2
それからしばらく、軍は窪地に留まった。
待機、と言われても、拠点は静かではなかった。軍議は毎日、朝から夜まで続き、聖騎士たちは川沿いを行ったり来たりし、チェーザレの騎兵が、日に何度も土手を越えて出ていき、日が落ちてから戻ってきた。
クラリスは、自分にできることをした。
ルークはアルダーンの魔法師のほか、聖騎士の一部を従え、戦闘時を想定をした戦略を立てていた。そのため、ルークと並んで治療薬を煮ていても、引っ切り無しにルークのところに相談がきて、ルークは途中で席を外した。なので、クラリスはルークの作る治療薬も引き継がなければならなかった。
凍傷の薬、噛み傷の薬、ワイバーンの爪の毒消し。鍋を掻き回しながら、頭の中で、バリアの式の硬さの節、追跡の式の網の目の粗さを考え、ルークの作り途中の薬も完成させる。手を動かしていれば、あの黒い城のことを、その時は忘れられてた。
けれど、夜になると、天幕の布越しに、それは見えなくても分かった。丘の上の、篝火の点線。あの中で、獣が千頭、眠っている。
——やはり、魔獣を誘き寄せるのは、難しいのだろうか。
時間がない、とセラフィンが言っていたのを思い出す。それなのに、最初の攻撃をした日からもうもう一週間、ここにいる。あたりはあっという間に真冬になった。朝には天幕の垂れ布に霜が降り、川岸の葦が凍る。クラリスは毎朝焚き火の前で手を温め、少しずつ数も減り貴重になった暖房の板をさする。
その日もクラリスは焚き火に当たりながら、このまま魔獣が城から出てこなければ、どうするのだろうかとクラリスは眉を寄せていた。
危険を冒してでも、忍び込むのだろうか。千頭の獣が眠る壁の中へ。ジルヴェスターは責任感は強く、行くと言えば、一番危険なところに自ら行く人だと思うと心が重くなる。
そのあとクラリスは兵士が昼食の準備を始めたのをみて、天幕から干し肉を取り、鍋に干し肉を入れた。
乾いた肉が湯の中でほどけていく、その匂いを嗅ぎながら、火の加減を見ていると、風向きが変わる。
すると突然、鼻をつくような臭いがした。
マンティコアの臭いに少し近い、腐った食べ物のような臭いだ。クラリスは思わず口を押さえて、風上を見る。
それからクラリスは土手をよたよたと登った。顔をあげると土手の向こう、川下の草地に、山があった。
それは大量の家畜の死骸だった。だが、豚や牛だけでなくフェンリルの死骸もある。それが、荷馬車で運ばれて、積み上げられている。ほとんどは腐りはじめているようだ。ハエのような小さい虫が周りに群がっている。
クラリスは息を止めた。だが同時に吐き気をもよおし、慌てて木陰に走る。一体あの死骸は何なのか?食糧が少なくなってきたため、ああいったものも食べるつもりなのだろうか?
「……大丈夫か?なるべく遠くに置くように言ったんだが」
後ろで、声がした。ジルヴェスターだった。いつのまにか、隣に立って、背中を撫でていた。
「あれは……?」
ジルヴェスターは、一瞬間を起き、ひと呼吸して口を開く。
「魔獣の、餌だ」
彼の目が、黒々としていた。
「餌……?」
クラリスには、その言葉の意味が、すぐには入ってこない。
「本来なら、不浄な魔獣に餌をやるなど、作戦であってもやるべきことではない」
セラフィンがいつの間にか背後にきていた。
ふと風向きが変わり、臭いが薄くなる。
「とはいえ、これ以上の戦略もないだろう」
ジルヴェスターは自分のマントを取り、クラリスを包みこむ。訝しげな瞳で見つめるクラリスを見て、続けた。
「城にいる魔獣への食糧の経路を断ったんだ。それらは元々運ばれる予定だった食糧の一部だ。魔獣は人間の三倍は食べるというからな。おそらくもう空腹を我慢できてはいないだろう」
一週間、聖騎士やチェーザレの騎兵が、毎日、土手を越えて出ていっていたのは、そのためだったのかとクラリスは納得する。
「司祭が操ろうとしても、腹が減った獣は、命令より食欲に対する本能が勝つだろう」
彼は、死骸の山を、顎で示した。
クラリスは、死骸の山をもう一度を見た。
あれを求めて、そしてその先の騎士や兵士を求めて千頭の魔獣が襲ってくるというのか。
本能に従う魔獣の動きは今までの魔獣と同じなのだろうか、と考え始めたところで、ジルヴェスターが心配そうにクラリスを見ているのに気付く。
クラリスは、何でもないように装うと、翠の瞳をジルヴェスターにむけ、「では出発はもう直ぐですか?」と聞いた。
ジルヴェスターは、クラリスの気持ちの奥底を見透かそうとするようにじっと覗き込む。
「ああ、ここは寒い。天幕で話そう」
そういうと背中をそっと押す。
セラフィンが何かクラリスに言おうと口を開きかけたが、ジルヴェスターがギラリと睨むと、肩をすくめて別の方向に歩きだした。
天幕の前に着くと、ジルヴェスターがさっと天幕を開け、クラリスが入る。それから、彼は天幕をくぐるとクラリスに巻いたマントの紐を丁寧にほどく。そして、マントをたたむとクラリスが座れるように床に置いた。
その手付きは王が王妃に向けるものというより、護衛騎士の姫の関係のようだった。
天幕の外はとても静かだった。
「……クラリス」
低い声だった。
「危険な潜入に、巻き込んで、すまない。出発は、数日以内だ」
クラリスは、顔を上げた。
「ただ——後方も、危険なのは変わらない。あの魔獣が門から出れば、どこにいても、安全な場所はない。……どちらがいいかと考えて、僕の手元に置いておけるほうを選んだ」
彼の手が、クラリスの手を取った。ジルヴェスターの手は冷たい。
「命に代えても、守る」
真顔だった。
クラリスの胃が、ぎゅっと縮む。命に代えてなんて、お願いだから言わないで欲しい。クラリスは今やジルヴェスターが心から愛おしく、自分の命よりも彼の命を優先して欲しかった。
だが、そんなことは受け入れてもら得るはずもない。
クラリスは心の中で、強く誓った。
——わたしも、あなたを守ります。
そして、クラリスは、握られた手を握り返して、口では別の言葉を選ぶ。
「……ジルヴェスターも。絶対に、無理はしないでください」
ジルヴェスターは、しばらくクラリスの顔を見ていた。それから、小さく、頷いた。




