帝国攻め1
ダルク伯爵領を出たのは、軍議の三日後だった。
負傷者の一部はダルクの城に残したが、約千五百人の軍はまた荷馬車を囲んで北へ動きはじめた。アルベルトの騎士が数十、道案内として先頭についた。
四日の道は、半分森、半分草原のような状態で足場は悪く、時々野生の魔獣が出たものの、ほぼ問題なく過ぎていった。
四日目の午前、先頭の騎士が立ち止まった。
クラリスは、ずっと魔術を探知する魔法式のことを考えていて、前の馬の尻ばかり見続けてきたが、ふと顔を上げた。
丘の上に、それはあった。
ヴォルグラート城は、城というより、山のようだった。黒に近い灰色の壁が丘の斜面をそのまま切り取ったように立ち上がり、その上に塔の群れが、まるで岩から生えたように突き出している。城の右側には帝都の町が、丘の裾を取り巻くように広がっていた。城側の壁は、ラリア侯爵領の砦の壁よりもはるかに高く、倍近くあるように見える。
「想像以上だな」
ジルヴェスターが横で目を凝らしながら、城を見て口を開く。
「はい。しかも丘の上となると、立地的にもこちらに分が悪すぎます。おそらく弓矢は全く届かないでしょう。投石器も、届くかどうか……」
ラウレンツが顎を触る。
クラリスはもう一度、城を見た。この中に忍び込むことなんてできるのだろうか?背中を冷たい汗が流れる。
その後、セラフィンは全体を見渡すと、軍を止める。軍の拠点を、丘から一里ほど南に離れた川沿いの窪地に決めたようだ。川が大きく蛇行して、その内側に低い土手に囲まれた平らな土地があり、土手の外からは中が見えない。荷馬車が並べられ、天幕が張られていくのを、クラリスは後方で手伝った。杭を打ち、薬箱を運ぶ。
ルークが荷馬車の陰から、小さな箱を幾つも取り出す。
「奥様。こちらを、お願いできますか」
魔石を埋め込んだ、掌ほどの板。シールドの魔道具だった。北西の砦で使っていたものより板が薄く、魔石も小さい。
「改良したんです。ワイバーンの岩なら、三発は保てるでしょう。五十歩おきに配置していってもらえますか」
切れ長のグレーの瞳に疲れを見せず、さらりと言う。
クラリスは、言われた通りに土手を回って、板を埋めていった。土はすでに乾いて硬い。シェルナでは感じなかった感触に、異国に来ていることを改めて感じさせられる。
あの黒い城を思うと心臓が激しく鳴り、手が震える。だがクラリスは、そんな考えを頭から振り払い、もう一度土を手に取って、ふっと息を吹きかけた。それから飛び具合を見て、再度、式を頭の中で展開する。自分にできることは、完璧にこなしてみせる。それが、ジルヴェスターを守れる唯一の方法だ。
その日の夕方、拠点の天幕で軍議が開かれた。
幹部が揃ったのを確認して、ジルヴェスターが口を開いた。彼は恐れを知らないのか、鋭い目つきではあるものの、基本的にはいつも通りだ。
「まずは、投石器を急ぎ作ろう。少なくとも十台は必要だ。ルークと聖騎士の魔法、それに投石器の攻撃で、一旦様子を見る。もし魔獣が門から出てきたら、深追いはせず、少しずつ引くように。もし千頭も魔獣がいて、ワイバーンが上から攻撃した場合、それを真正面から受ければ被害は尋常ではない。なるべく、魔獣を引き出せればいい」
セラフィンは広げられた地図を感情のない目で見ている。
「それで、潜入するのは、きみと私、それから聖騎士二名、ディートリヒ……それから、奥様でいいか」
セラフィンは、催促するような目つきで、もう一度ジルヴェスターを見た。
魔獣の中を、ばれないように抜けて潜入するのだ。クラリスは同行することは予想していたものの、正式に聞くのは初めてで緊張で瞳を揺らした。だが、怖がっていることを見せずにいようと、背筋を伸ばす。
そんな様子を、ジルヴェスターはしばらく隣でじっと見下ろしていたが、小さく息を吐くと、「それでいいだろう」と言った。
セラフィンは、クラリスを一度じっと見て、らそして地図を指す。
「魔獣が正門から出てくることを想定し、その横をすり抜けます。……魔石は好きなだけ使っていいですから、可能な限り、見つからないようにお願いします。城の内部には神殿もありますから、そこに魔獣が溢れていることは考えにくいはずです。そこまで保つように、お願いします」
セラフィンが淡々と話す内容にクラリスは頷いたが、声がうまく出ない。期待されることの重みが、ほんの少しだけ理解できた気もした。ジルヴェスターが心配そうに瞳を揺らして、クラリスの肩を寄せた。
それから数日後、日が西に傾きはじめた頃、潜入の六人は拠点を出た。
馬は使わず、徒歩で、土手を越え、川に沿って北へ向かう。川岸には枯れた葦が人の背丈ほどに茂っていて、六人はその中を一列になって進む。セラフィンが先頭で葦を掻き分け、クラリスはジルヴェスターのすぐ後ろ、その後ろにディートリヒと聖騎士が続いた。
葦の帯が切れると、深い森になった。この森は、城のすぐ横まで続いているようだ。足場は悪く、クラリスは何度も滑ったが、セラフィンは速度を落とさないため、あたふたとついていく。クラリスは、いつか崖から落ちたあとのことを思い出して、あの頃からあまり体力は向上していないなと、ぼんやりと考えた。
どのくらい歩いただろう。周りは、もう真っ暗だ。だが、ふと気づくと、木々の隙間から、松明で照らされる正門が見えた。一瞬、息ができなかった。もう、すぐそこまで来ていたのだ。
セラフィンは無言で止まり、目で、魔法を展開するように指示をする。クラリスは、暗く見えなくなった土を手で触って、念のため、質を確かめた。そして持ってきていた板を利用し、それを修正する形で、魔法を構築していく。すると、一隊は薄い土の膜と、獣の臭いで覆われた。
しばらくここで待つ、とセラフィンが小さく言い、クラリスは岩に隠れるように座り込んだ。ジルヴェスターの目は休みなく動き、城を隅々までじっと観察していた。時折、後方を見て、眉を寄せる。
夜が、深くなっていった。地面から冷えが上がってきて、指先の感覚が鈍くなる。獣の臭いには、いつのまにか鼻が慣れていた。ディートリヒが小さくくしゃみをして、隣の聖騎士に睨まれる。それきり、誰も動かなかった。
それから、数時間が経った。
合図は、後方から来た。
南の空——拠点の方角が、突然、赤くなった。火の塊が、上がったのだ。人の背丈の何倍もある赤い球が、藍色の空を弧を描いて飛んでいき、あの高い町の壁のさらに上を越えて、城の内側へ落ちた。轟音が遅れて届き、壁の向こうで火柱が立つ。
クラリスは、思わず息を呑んだ。
ルークだ。あんな火魔法は、見たことがない。どんな大きな魔石がいくつあったとしても、あんなに魔力を持つことはできないだろう。
城から少し離れた場所に、投石器が並べられた。石は壁に当たり、壁を少し削ったが、大きな被害を与えることは、やはり難しいようだ。
城の上に、黒い影が舞い上がった。ワイバーンだった。塔の上から十体ほどが一斉に飛び立ち、翼の音がここまで聞こえてきて、丘の上の空を旋回しはじめる。
クラリスは慌てて、式に力を足した。魔石を握り、六人を包む粉を厚く濃くして、上から見ても木々や岩と見分けがつかないように、臭いを強くする。ワイバーンの影が丘の上を何度も横切ったが、誰も動かなかった。
けれど、ワイバーンは丘から離れなかった。
火の元や投石器には全く向かわず、拠点の方角へも飛ばず、ただ城の上の空を大きくゆっくりと回り続けている。まるで外の火などどうでもいいかのように、自分たちの巣の上だけを守っているように。
「……出て、来ませんね」
ディートリヒが小声で言った。誰も答えなかった。
後方で弓が鳴り、マナを籠めた矢が何百と、町の壁へ向かって飛んだ。光の筋が藍色の空を雨のように渡っていったが、やはり矢は壁の半ばで力を失った。高すぎるのだ。矢は壁に当たって石の上で光を散らして落ち、頂には一本も届かなかった。
壁の上から矢が返ってきたが、こちらも距離を取っていたので、矢は土手の手前の草地にばらばらと落ちて、それきりだった。それも、数えるほどしか返ってこない。
結局、正門は開かず、帝国軍も魔獣も出てこなかった。
「……予想通りだな」
ジルヴェスターが低く言った。
「攻める気はない、ということか」
セラフィンは答えなかった。木々の隙間から正門を見たまま、その目の奥が、暗くぎらついていた。
六人は来た道を戻った。身を屈めて走り、葦の中を一列で。月が出ていて、葦の穂が銀色に揺れていた。誰も口をきかなかった。
窪地に戻ると、チェーザレが土手の上で待っていた。傷のある顔が篝火に照らされて、渋く笑っている。
「……見たか。ワイバーンは、こっちには来なかった」
「ああ」
クラリスは天幕に戻って、毛布にくるまった。緊張で、心臓はまだばくばくと破裂しそうだ。それでも、目を無理やりつぶった。
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