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伯爵領

朝、窪地を畳んで、軍はダルク伯爵領へ向かった。


負傷者は荷馬車に寝かされ、その列を騎兵が囲む。速さは、昨日までより落としているようだが、それでも隊は淀みなく進んだ。


クラリスは、ジルヴェスターに呼ばれ、軍の先頭近くに馬を並べていた。


朝の光の中で見るジルヴェスターの横顔は、昨夜の隈が嘘のように整っていて、黒い鎧の襟から覗く首筋が、凛々しく真っ直ぐに伸びている。


ふと、灰色のローブの列に目をやった。


セラフィンは、いつもと変わらない。異常に整った彫刻のような顔は、無表情のままだ。馬上で、隣の聖騎士と何か話している。

ジルヴェスターが昨晩、他の聖騎士はセラフィンのことを信仰の対象のように見ていると言っていた。

そう思って見てみると、聖騎士の瞳は、セラフィンを見ながら恍惚としているようにも見える。…まるで恋でもしているような目だ。


クラリスは眉を顰める。神殿は、同性愛を公式には認めていないはずだ。


そんなことを考えながら、様子をじっと見ていると、ふと、セラフィンがこちらを見て、目が合った。暗い青の瞳を見た途端、すべてを見透かされている気がして、クラリスは恥ずかしくなり、顔を赤らめて前を向いた。セラフィンが、訝しげに目を細める。


すると突然、ジルヴェスターが少し速度を落として、クラリスとセラフィンの間に入り込み、セラフィンが視界に入らなくなった。



その後も順調に進み、二日目の午後、ダルクの城下町が見えてきた。


町に入ると、クラリスが想像していたほど、ひどい状態ではなかった。扉が壊れた家、割れた窓、倒れた屋台。焼けた一角もある。けれど、通りには、もう人が戻りはじめている。領主の騎士たちなのだろうか、食糧を城下町の人々に配っていた。だが、人々はアルダーンの旗を見て一瞬立ちすくみ、隠れるように家に入っていく。


騎士たちはセラフィンとジルヴェスターのもとに駆けつけると、何かを話し、そのまま進むように言った。


伯爵領の状態は、城に近づくにつれて変わっていった。


坂の途中から、血の跡があちらこちらに見られ、石畳には乾いて黒くなった飛沫、壁には獣の爪の跡が残っている。そして——脇腹を食いちぎられ、倒れたままの騎士が何人も、道の脇に寄せられていた。その間に、骨が見えるほど痩せたフェンリルの死骸も、多数転がっている。ジルヴェスターらの先鋒隊がつく前に、すでに荒らされていたのだろう。


城は、丘の上にあった。


石造りの、古い城だった。門扉の片方が蝶番から外れて、斜めに傾いている。門の内側で、伯爵の紋の旗が、半分破れたまま風に揺れていた。この門の中で、どれだけの騎士が、どれだけの時間、獣と向き合ったのか。今まで城の中で帝国によって配置され、飼われていた魔獣が、突然暴れ出したのだ。きっと多くの騎士や領民は、驚いたことだろう。


セラフィンが馬を降り、門へ歩いていく。


門の内側から、一人の男が出てきた。三十半ばほどの、黒い髪の男だった。伯爵家の紋のついた上着を着ているが、目の下に、深い隈がある。それでも背筋を伸ばして、彼はセラフィンの前で、深く頭を下げた。


「アウレリア聖国で聖騎士団長を務める、セラフィン・クロアだ」


男は、はっとした顔をしたが、すぐに元の顔に戻す。


「……お待ちしておりました。ダルク伯爵が弟、アルベルト・ダルクと申します。伝令は、受け取っております」


その声は、少し掠れていた。


「兄は……帝都から配置されていたフェンリルが、突然、地下から暴れ出しまして。それで。……私は西の分領に出ておりましたが、報せを受けて、急ぎ戻りました。戻ったときには、もう」


領主が亡くなるほど城が荒らされたという事実に、クラリスは息を止めた。


「我々は、もう帝国の言うことに従う気はございません。……と申しましても、ご覧の通り、戦力はほとんど失いました。ですが、帝都の内情は、それなりに把握しております。お役に立てることが、あれば」


セラフィンは、短く頷いた。


「城を、少しの間借りられるか。すぐに帝都に向かうことになるが、数日、騎士たちを休めたい」


その後ろから、ジルヴェスターが馬を降りて進み出た。


「ジルヴェスター・アルダーンだ。……対価は、払うようにしよう」


アルベルトは、一瞬、言葉を失ったように見えた。


「……対価、など。残りの魔獣を処分していただいた御礼と思い、そこは気になさらずご使用ください。いずれにせよ、帝国の支配から、我々も離脱する必要があります。……こんなところで立ち話をするわけにもいきません。まずは、どうぞお入りください」


多くの騎士たちは、騎士宿舎や、壁で囲われた中庭に野営することになった。クラリスは、伯爵家の騎士に案内されて、城の中に入る。


だが、城の中も、ひどい状態だった。


廊下の絨毯が引き裂かれ、壁の織物が爪で裂かれている。石の床に、乾いた血の跡が点々と続いて、階段の途中で、大きな染みになっていた。フェンリルがどこで飼われていたのかは分からないが、城の中でも、だいぶ暴れたようだった。こんな状態の城の中に泊まることなど、できるのだろうかと、クラリスは不安げに周りを見渡す。だが、もう真冬が近づいており、壁もないところに野営することと比較すれば、ずいぶんとましにも思えた。


与えられたのは、二階の小さな客室だった。


部屋を見た途端、そんな不安は吹き飛んだ。


何日も野営を続けてきたクラリスには、片隅にある簡素なベッドが、天国のように見えた。今日だけは、あのふかふかなところで寝られるのだろうか。


「……申し訳ございません。いまは、侍女もおりませんで。お世話が、行き届きませんが」


「いいえ! これで十分です」


クラリスは、本心から、慌てて言った。


案内してくれた騎士は、深く頭を下げて出ていった。


クラリスは、騎士が扉を閉めた瞬間に、ベッドに飛び込んだ。少し埃っぽかったが、横になるだけで、足が軽くなる。


だが、ふと窓の外に目をやると、北の地平が見えた。あの向こうに、帝都がある。はっと起き上がると、窓辺に立って、意識を集中するように目を閉じた。細かいことは、遠すぎて読めない。それでも——あの方角だけが、ずっと、重い。何かが、あそこに沈んでいる。やはり、敵は、あそこなのか。


その後、魔力がほぼ底を尽きたのもあり、しばらくベッドの上でまどろんでいると、すぐに扉が叩かれた。


「時間はありません。軍議に来てもらえますか」


冷たい瞳のセラフィンが、立っていた。


すると、ジルヴェスターが少し息を切らしながら来て、後ろからセラフィンの肩を引く。


「勝手なことはやめてもらおう。長旅のあとだ。少しの休みぐらい、いいだろう」


あまりにもジルヴェスターの力が強かったのか、セラフィンが、少しよろけた。


セラフィンの冷たい目が、ジルヴェスターを捉える。


「一刻の猶予もないのは、分かっているだろう。復活してからでは遅い。彼女には、意見をもらわないといけないこともある」


ジルヴェスターが反論しようと口を開きかけたが、クラリスは慌てて割り込んだ。


「私は、大丈夫ですから。い、いきましょう」


そう言って、ジルヴェスターの背中を押す。押しても、がっしりとしたジルヴェスターは全く動かなかったが、小さくため息をついて、しぶしぶと歩き出した。


軍議は、城の大広間で開かれていた。


長い卓の周りには、すでに人が集まっていた。聖騎士が二名。ラウレンツ。ルーク。チェーザレ。ユアン。そして、アルベルト・ダルク。クラリスは、ジルヴェスターに手を引かれ、彼の隣に座った。


卓の上に、地図が広げられていた。


見たことのない地図だった。帝都と、その中央に聳える城——ヴォルグラート城。城壁の線、門の位置、神殿の総本山。けれど、その線は、ところどころ歪んでいた。太さも、濃さも、揃っていない。何人もの人の記憶と、聞き伝えと、古い記録を寄せ集めて、繋ぎ合わせたようだった。


セラフィンが、皆が揃ったのを確かめて、口を開いた。


「作戦は、前に話した通りだ」


低い声だった。


「戦争を仕掛け、魔人の目を表に引きつける。その間に、少数で忍び込み、司祭らより、銀の輪を奪還する」


彼の指が、地図の神殿を押さえた。

侯爵家の砦の戦いでは結果として全面戦争を仕掛けることになったが、今回は最初からそう進めるらしい。


「司祭は、おそらく、まだ十人はいるとみるべきだろう。砦とダルクで倒した二人は、いずれも助祭——司祭の中では、最も低い位だ。あの位の神聖力で、魔獣を操る術を使えた。……それより上の位の者は、皆、同じ力を持っていると考えるべきだ」


クラリスの胃が、重くなった。あの砦の壁の上の男。あの草原の、フードの男。あれと同じことができる者が、あと十人もいるなんて。


「だが、そもそも、銀の輪がヴォルグラート城にあるという確証はない」


ジルヴェスターが、静かに言った。


「ああ。ない」


セラフィンは、地図から目を上げずに答えた。


「……十年探して、残ったのがそこだ。それ以上は、入って見るしかないだろう」


ヴォルグラート城に忍び込むというリスクの高さを考えると、多くの人が納得いっていないようだった。


クラリスは、少し緊張しながら、口を開いた。


「……私は、あそこに、銀の輪があると思います」


ジルヴェスターは少し驚きながらも、クラリスを見て、その先を頷いて促した。


「……魔人……魔術を操る術を、探知できるようになっていまして。あ、近ければ細かく分かる、という程度ですが……遠くても、大きな歪みの向きだけは、分かるんです。人が組む式は、始点と終点があって、読めば、必ずどこかで閉じます。でも、魔術は、閉じない。式が延々と続いていて。それに、マナに多少の歪みが出るので、それらを探知できるように式を組み立ててみたんです。……さっき、部屋から北を読んだら。あの方角だけ、ずっと、重かった」


そこまで話して、あまり皆が興味のないだろうことを話してしまったと、赤くなって俯く。


「それで、その魔術が城から多く使われているから、おそらく多くの司祭がその城に留まっている、ということか。そうなると、普通に考えれば、銀の輪もそこにあることになるだろうな」


それを聞いていたジルヴェスターが続け、ありがたい助け船に、クラリスは強く頷いた。


「……なるほど。まあ、それでもこのリスクを取ることには全面的な賛成はできませんが、他にはいずれにせよ道はないですからね。奥様の発見を踏まえれば、妥当といえるでしょう」


ルークが、頭の後ろで手を組みながら言った。


クラリスは、大事な決断に対する判断要因となったことに胃が重くなったが、自分の魔法式を再度頭に浮かべ、この情報に間違いはないことには自信を持つべきだと言い聞かせた。周りを見ると、クラリスに対して疑っている人は、誰もいないように見えた。


「だが、そもそも、どうやって魔獣たちを引きつけるかですな」


ラウレンツが、髭を撫でながら言った。


「ああ、向こうだって、こちらの狙いが銀の輪だとは知っているだろうからな」


チェーザレが、腕を組んだ。


「そう簡単には、出てこんだろう。壁の中に籠もって、魔獣を守りに使われたら、それまでだ」


「最悪、引きつけるだけで、いい」


セラフィンが、言った。


「目が表を向いていれば、忍び込める」


「……それは、危険だろう」


ジルヴェスターが、静かに言った。


「壁の中に、大量の魔獣がいる。上には、ワイバーンがいる。目が表を向いていても、獣の鼻は、内側にある。……不可能だ」


アルベルトが、頷いた。


「恐れながら、陛下のおっしゃる通りかと。……城内の飼育場の規模から見て、獣は、千頭近くいるものと」


千頭。


広間が、静かになった。あの侯爵領の砦で、数百頭だったはずだ。千頭もいる中、少数で忍び込むのは、殺されにいくようなものだ。


セラフィンの目が、暗く、ぎらついた。あの砦の軍議で見た、底の見えない黒。


「……ただ、時間がない」


彼は、地図から目を上げずに言った。


「奴らが、荷馬車を狙ってまで時間を稼ごうとしている。……それは、復活が、近いということかもしれない」


誰も、何も言わなかった。


「……まずは」


やがて、チェーザレが口を開いた。傷のある顔で、渋く笑いながら。


「出てくるかどうか、軽く突いてみるか。……壁の前で、ルーク殿にでも、派手な攻撃魔法を展開してもらうか」


ルークが、肩をすくめた。



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