本隊の進軍3
「この寒さと、風の強さだと……いまの板のままでは、たぶん、うまく効きません。式を、少し変えないと」
クラリスは、緊張で口の中はカラカラだった。それでも、馬上で、もう頭の中で式を書き換えていた。風の節を強める。粉を重くする。土の粒を、風に流されにくい大きさに——
「いえ。残念ながら、そこまでの猶予は、ないようです」
声のほうを見ると、ルークが、馬からよろよろと降りる。マントの襟を口元まで上げたまま、暗くなりはじめた周りを、なんでもない顔で見回している。けれどその指先が、鞍の上で小さく動いていた。探知の式を、展開しているのだ。
「伯爵領のほうから、何かが、こちらへ向かっています。……数は、まだ分かりませんが、速い。すぐにでも戦闘の準備に移るべきでしょう」
チェーザレが、舌打ちをした。
ルークは、そのままクラリスを見た。
「奥様。板に刻まなくても、その場で今の板を書き換えて臭いを消す式を展開することは、できますよね?」
「……はい。それは、できます」
「なら、その式を使う予定だった場所へ、奥様ご自身が行って、展開するしかないでしょう」
ルークは、声に少し緊張を乗せつつも、さらりとそう言った。
チェーザレが、一瞬、目を閉じた。だが開いた目はキラリと光る。
「……そうか。分かった」
彼は、馬首を返した。
「ディートリヒ、囮を任せる。七百の騎士と兵士で、ここに残れ。荷馬車と一緒に、堂々と、道の上にいろ。間違っても死ぬなよ。……ルークと聖騎士何人かも、囮に。荷馬車に、例のシールドを頼む」
「チェーザレ殿、奥様の護衛は——」
「俺が連れていく」
チェーザレは、短く言った。
「五百を連れて、森へ入る。百は、念のため、隠した食糧のほうへ。……ディートリヒ、ここは俺の指示に従ってくれ。姫は、俺が命に代えても」
ディートリヒは、唇を噛んだ。それから、大きく息を吸って、頷いた。
「……はっ」
「姫。降りてください。ここからは、歩きです」
言われるままに、馬を降りた。栗色の馬は、すぐに別の騎士に手綱を取られて、驚くほどの速さで後方へ引かれていく。
そして、チェーザレに腕を取られて、クラリスは道を外れた。
川を、浅瀬で渡る。膝まで、冷たい水に浸る。その向こうは、草原が緩やかに盛り上がって、森の縁へ続いている。岩がところどころ、地面からぼこぼこと頭を出していて、足を取られそうになるが、チェーザレは、駆け足で登っていく。クラリスは、あたふたと、その背中を追った。息が上がる。ローブの裾が、濡れて重い。
森に入ると、急に、暗くなった。
そして、暗がりの中に、すでに人がいた。何百という騎士が、木の間に、岩の陰に、身を伏せている。鎧の音を殺して、息を殺して。その中に見慣れた髭の顔があった。
「ラウレンツ……!」
「奥様!」
ラウレンツは、ここにクラリスがいることに対して少し動揺したように瞳をゆらすが、すぐにいつもの顔に戻る。
彼は、荷馬車を窪地へ引いたあと、そのまま、森へ回り込んでいたのだ。いつのまに、と思う暇もなかった。
そして、チェーザレが、伏せている騎士たちをかき分けて、奥へ進む。森の縁に近い、少し開けたところで、彼は足を止めた。
「姫、ここで」
クラリスは、膝をついた。
土に、手を当てる。乾いている。落ち葉の下は、少し湿っている。臭いだけを撒くにしても、粉は土と一緒に散らすのだ。だから、土の状態が要る。それから、風。森の中でも、枝の間を、冷たい風が抜けていく。強い。この風に流されないように、粉を重く。寒さで固まらないように、粒を細かく。
板を手に、頭の中で、式を組み直す。丁寧に。急いで、けれど丁寧に。
手を、土の上の板に押しつけた。
ふわり、と、足元から粉が浮いた。それが、木々の間を、低く、低く広がっていく。そして——
マンティコアの、あの酸っぱく腐った臭いが、一気に森の中に満ちた。クラリスは、うっ、と口を押さえた。目に、涙が滲む。けれど周りの騎士たちは、少し顔をしかめただけで、むしろ感心したように頷いていた。北西の砦で、魔獣の臭いには嫌というほど慣れているのだ。
少し顔を上げると、伏せている騎士たちの背中の間から、道が見える。
囮の隊が、遠くに見える。荷馬車が、道の上に、堂々と並んでいる。半分ほどの荷は囮として残してあるように見えた。その周りに、七百の騎士。ディートリヒの背中が、先頭に見える。
「……囮に、半分の食糧を使って、大丈夫なんでしょうか」
小声で訊くと、チェーザレが、口の端で笑った。
「ジルヴェスターが、狙われることを予想してくれたおかげでな。……ユアンが空の樽と、空の麻袋を、大量に用意してあります。あそこにあるのは、ほとんど空箱です」
クラリスの手は緊張でじっとりと濡れ、それをスカートで拭きながら、感心した。
「ユアンは、そういうときに、頭が回りますからね。だから手放せない」
それから、息を潜めた。
森は暗く、風は冷たく、臭いは酷い。
どれくらい経っただろう。
——聞こえた。
遠く、北の暗闇から、低い、地鳴りのような音がする。そして獣の、長く尾を引く遠吠えが、ひとつ、ふたつ、重なって、こちらへ近づいてくる。
胃が、縮こまる。腕が、震えた。クラリスは、その腕を、もう片方の手で押さえた。
そんな中、突然暗闇の中に、白いものが、見えた。
犬のような、狼のような、大きな獣が、群れになって、道の北から溢れ出してくる。二百は、いる。ガルムだ、と思った。北西の砦で見た、あの獣。
「……フェンリルだな」
チェーザレが、低く言った。
言われて、目を凝らす。確かに、砦で見たガルムより、一回り大きい。そして、色が、白い。雪のような白い毛が、暗闇の中で、ぼんやりと光っている。
白い群れは、あっという間に、囮の隊を取り囲んだ。
道の上で、戦いが始まった。ルークが、荷馬車に、三重のシールドを張るのが見える。白い光の膜が、三つ、重なる。相変わらずの展開の速さにクラリスは感心する。そして、騎士たちが、フェンリルに剣を振るう。一頭、二頭と倒れていく
だが、数が相当多いようだ。フェンリルは、倒れた仲間を踏み越えて、次々と押し寄せ、囮の隊が、じりじりと、押されていく。
フェンリルが、シールドに、噛みついた。何頭も、何頭も、必死に。そして——一頭が、口を開けた。
白い息のようなものが、吐き出された。ブレスだ。それがシールドに当たると、光の膜が、じゅう、と音を立てて、溶ける。溶けたところから、次のフェンリルが、体を捻じ込んでくる。ルークや聖騎士が、慌てて、次の膜を張り直しているのが見えた。
「……やはり、狙いは荷馬車か」
チェーザレが、呟いた。
前にいるラウレンツが、振り返りこちらを見た。チェーザレと、目が合う。チェーザレが、小さく頷いた。
ラウレンツが、片手を上げた。
次の瞬間、森の中の数百人が、一斉に立ち上がった。鎧の音が、いっぺんに森を満たした。そして、坂を——駆け下りていく。剣を抜いて、槍を構えて、暗い斜面を、雪崩のように。
フェンリルは囮に夢中で、魔法で隠された背後に気づかなかった。
数百人が、獣の群れの背中に、突っ込んだ。囮だった騎士や兵士もそれを見て、押し返す。フェンリルは、前と後ろから挟まれ、白い毛が、剣に、槍に、次々と裂かれていく。遠吠えが、悲鳴に変わっていく。
クラリスは、森の中に残されていた。
チェーザレが、肩を押さえて、動かさない。「姫は、ここで」。その手は、強かった。
けれど、クラリスは、この快進撃を違う目線でみていた。
囮の荷馬車を、狙って襲わせる。ブレスをシールドに向けさせる。そんな細かい指示を、獣に出せるということは——近くに、いる。魔人。いや、司祭が。あの砦の壁の上にいたような、誰かが。
クラリスは、そっと、土に手を当てた。
探知の式。元々魔獣を見つけるために工夫したもの。それを、さらに組み替える。魔力を抑えて、細く、広く、網の目のように。———魔術を見つけたい。砦の壁の上で、一度だけだが、あの禍々しい式の気配みている。それを思い出し、網に引っかけるように。
式を、そっと、展開した。
網が、森の中を、静かに広がっていく。北へ。北へ。何もない。何もない。——
引っかかった。
少し北へ行ったところ。森の縁の、すぐ下。何か、黒く、澱んだものが、そこにいる。
クラリスは、式を止めた。
「……チェーザレ」
チェーザレは、坂の下の戦いを、じっと見ていた。
「向こうに……魔人が、います」
チェーザレが、こちらを見た。目を、見開いている。
「……どっちだ」
「北です。案内、します」
クラリスは、立ち上がった。チェーザレも素早く立ち上がる。
クラリスは、森の中を、北へ駆けた。暗く、ほぼ見えない。枝が顔を打ち、髪が枝に絡んで、何本か抜けた。
はあはあと息は上がるが、チェーザレが、すぐ後ろについてくる。しばらく走って、森の縁が近づいたところで、クラリスは、身を低くした。
そっと、坂の下を覗く。
いた。
道から少し外れた、草原の暗がりに。黒い馬が一頭、ぽつんと立っている。その上に、フードを深く被った人影が、背中を丸めて、ひっそりと座っていた。戦いのほうを、じっと見ている。動かない。まるで、そこにいないかのように。
あれだ。
クラリスは、チェーザレに、目で合図を送った。
チェーザレは、黙って頷いた。それから、背中から、弓を外した。
矢をつがえる。ゆっくりと、限界まで弦を引く。腕は全く震えていない。クラリスは、驚いた。あの人影までの距離は、ものすごくある。弓で届くのかどうかも、分からないほど。それなのに、チェーザレの目は、迷いなく、一点を見ていた。
弓が、鳴った。
矢は、真っ直ぐに飛んだ。暗闇を裂いて、吸い込まれるように。
——そして、フードの人影が、音もなく、馬から落ちた。
その瞬間、坂の下の白い群れが、狂う。
統率が消え、フェンリルたちは、あちこちへ弾けるように散っていく。一部は、囮の隊に無茶苦茶に飛びかかり、一部は、尾を巻いて、森の中へ逃げ込んできた。
「——姫!」
チェーザレが、クラリスの腕を強く引き、背中に隠した。太い木の幹に、二人で身を寄せる。
臭いの式は、まだ消えていない。そのおかげか、暗闇の中を、白い影が、数頭、すぐ目の前を、駆け抜けていく。息遣い、毛の擦れる音が、聞こえた。気づかないまま、森の奥へ、消えていく。
クラリスは、チェーザレの背中の後ろで、息を止めていた。
背中を冷たい汗が流れる。
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