本隊の進軍2
朝、クラリスは、今から向かう方向を、じっと見た。
ラーゲン高原とは違い、薄く緑が広がり、奥には森のようなところも見える。ここから四日の道の先に、ダルク伯爵領がある。だが、ここからでは、草原が、朝靄の底にどこまでも広がっているだけだ。
先に行った先鋒隊からは、特に知らせはないらしい。報せがないということは、何もない、ということだとユアンは言っていた。無事だ、ということだ。……そう、思い込む以外にはない。
ジルヴェスターがまた危険なところにいると思うと胸が張り裂けそうで、大きく息を吸い込み、吐く。
ジルヴェスターを守ってあげたいと思う一方で、足手纏いになることが明らかな自分が一緒についていくことは、どう考えても最善の策ではないだろう。
どうか、無事でいて。
胸の中でそれだけ唱えて、クラリスは本隊のところに戻った。
本隊の出発は、昼前だった。
砦の門の前で、エリザベスが見送りに立っている。青いドレスではなく、今日は騎士服に戻っている。彼女は、クラリスの前まで来ると、軽く膝を折った。金色の髪が、風になびく。
「道中、どうかご無事で。……砦は、必ず守ります。帝国が戻ってきても、ここは渡しません」
「ありがとうございます。エリザベス様も、どうか」
凛として、部下に慕われる彼女をみて、羨ましか思う。
ジルヴェスターとの関係を疑っているわけではないが、美人がジルヴェスターの周りをこれ以上うろつかないように、ヴィルス兄様とくっつけてしまいたいという気持ちがうずく。
「……ヴィルス兄様のこと、何かできることがあれば言ってください。とは言っても、すぐに会えるとは思わないのですが」
エリザベスの目が、大きく開いた。それから、みるみる頬が赤くなって、彼女は珍しく、言葉に詰まった。
「い、いえ、そんな……! ……いえ」
俯いて、それから、小さく、けれどはっきりと首を横に振った。そして、後ろに控える多くの騎士や兵士たちを見る。
「……お気持ちだけ、頂きます。私は、この土地でやるべきことがありますから。……叶わぬことは、叶わぬままで、いいのです」
その顔は、寂しげで、けれどどこか、吹っ切れているようでもあった。
クラリスは、彼女の背負うものの大きさを見た気がして、いつまでもジルヴェスターを追いかけているだけの自分を恥じる。
「……わかりました。お元気で」
それだけ言って、クラリスは本隊の列へ戻った。
本隊は、静かに、けれど淀みなく動きはじめた。
先頭近く、チェーザレとユアンの馬のそばに、クラリスは行く。いつも乗っている栗色の毛の馬は、こんな遠征であっても疲れを見せない。クラリスは、馬の上から優しく撫でる。
すぐ横に、ディートリヒの馬が並ぶ。彼は相変わらず、周りを警戒しながら、片時も離れない。ルークは、隊の半ば。呆れたことに、馬の背中に本を置く台を作っていて、マントに包まり馬を進めながら本を読んでいた。
後方から、蹄の音が近づいてきた。振り返ると、ラウレンツだった。
「奥様。……お久しゅうございますな」
「本当に。ずっと、お話しできていませんでしたね」
砦の戦が終わってからほとんど顔を合わせてなかったことに気づく。
「申し訳ございません。侯爵の兵と、うちの兵の割り振りだの、負傷者を砦に残す残さぬだので、走り回っておりまして。きっと奥様は陛下がいなくて寂しいでしょうにお相手もできず」
「本当に私とジルヴェスターの話が好きですね」
ラウレンツは片手で頭をかきながら、悪びれもせずに話し始める。
「はあ、こちらもお二人の関係性のせいで仕事が増えてるので、せめて少し話のネタには使わせてください。陛下が出られてからは、なおさらで。……あの方、出発前に、私まで細々と指示を」
クラリスは、ラウレンツが最近はルークのようにからかってくることを不満に思いながらも、ジルヴェスターが自分を心配してくれていると言うエピソードで、心に温かいものが広がっていく。
そんな様子をラウレンツはにやりと笑いながら見ていた。
「さて、私は後方部にいますので。何かあれば、すぐに参ります」
そう言って、馬首を返して、後方へ戻っていった。
高原を降りきると、道は、広い草原に出た。
右手に、細い川が一筋、道と並んで流れている。その川の向こう、少し離れたところに、黒々とした森が、帯のように続いている。地図でチェーザレが指していた、あの森だった。
荷馬車は、食糧の樽と麻袋を囲むように、隊列を組んで進んだ。内側に荷、外側に騎兵。ユアンが事細かに指示を出し、配置を決めていた。
「思ったより、速いのね」
馬を並べながら、クラリスは少し息を荒くしながら言った。高原のときよりスピードが出ている気がする。
「遅らせるわけには、いきませんからね」
ユアンが答えた。
「遠征でいちばん大事なのは、どれだけ食糧を持たせるか、です。この草原を、のんびり歩いている余裕はない。一日遅れれば、その分、食糧が減る。それに次の領で、補給できるとは限りません。もう魔獣に荒らされていれば、蔵は空か、焼けているか。……いまある分を、大事に使うしかない。……その上」
彼は、前方を——北を、顎で示した。
「高原のときとは違い、僕たちがこの道を進むことは明らかだ。いつ敵に襲われてもおかしくはない。危険な道は早く抜ける方がいいでしょう」
「なるほど……」
クラリスは、囲われた食糧の樽を見た。敵が攻めてきたら、私たちはこの食糧を守りながら戦う必要がある。
魔石は無駄にできないため、自分の魔力でカバーできる魔法を展開しなければならない。これだけの軍を守るにはもっとバリアの効率性を上げないとと気合いを入れる。
そういえば、と思い出した。
「ユアン。……エリザベス様にさっき、兄様に何かできることがあればと言ったら、叶わぬことは、叶わぬままでいい、って」
「でしょうね」
ユアンは、少しも驚かなかった。
「賢い方です。……自分の立場も、殿下の立場も、分かっておられる。彼女は侯爵家の唯一の跡取りであり、騎士団長ですからね。生まれながらにして周りの期待と責任の重さはきっと想像できないほどでしょう」
クラリスは、式ばかり書いて部屋に閉じこもってきた自分の人生と対比し、胸の奥隅に鈍痛を感じた。
そんな様子をユアンは横目でみて、口を開く。
「でもエリザベス様は言ってましたよ。姫様をみて、殿下を思い出しとても嬉しかったと。…それに、戦闘での活躍を考えると、姫様もいつのまにかこの軍隊の中で無くてはならない存在ですね」
クラリスは、馬上で、赤くなった。ユアンは、前を見たままだ。彼は口が上手いことは知っている。でも今はお世辞でもその言葉に頼りたい気持ちだった。
「おいおい、姫様を口説いてると、保護者が戻ってくるぞ」
すぐ前をいくチェーザレが呆れたように言った。
隊は、順調に進んだ。
昼を過ぎ、川はまだ右手を流れ、森はまだ西に続いていた。草原に、蹄と車輪の音だけが、規則正しく響く。時折、鳥が飛び立つほかは、何も起こらなかった。何も起こらないことに、クラリスは、少しずつ、肩の力を抜きはじめていた。
だが。
日が傾いて、草原に長い影が伸びはじめた頃。
先頭を行くチェーザレの顔が、変わった。
さっきまでの、爽やかな笑みが、消えていた。彼は手をあげると馬を止める。続く騎士や荷台もガタガタと音を立てながら停止した。そして、彼はしばらく、西の森を見ていた。それから、来た道を——後方を、振り返る。眉を深く寄せて、何かを考えていた。
「……ユアン」
低い声だった。
ユアンが、馬を寄せる。チェーザレが、短く、何かを耳打ちした。ユアンの涼しい顔が、一瞬、引き締まる。彼はすぐに馬首を返し、伝令の騎士に二言、三言伝える。そしてユアンと伝令が、後方へ駆けていった。
程なくして、隊列が、二つに割れはじめた。
後ろ半分の荷馬車が、ゆっくりと向きを変えて、いま来たばかりの道を、戻っていく。後方のラウレンツの隊が、それを囲んで、一緒に引いていった。クラリスは、馬上から、それを呆然と見ていた。
「……どうしたんですか」
チェーザレが、馬を寄せてきた。深刻な顔のまま、けれど声は、努めて静かだった。
「姫。少し、警戒したほうがよさそうです。」
彼はディートリヒに目で合図をするとディートリヒがぴたりと馬を寄せる。
「警戒……?」
「川をご覧ください」
チェーザレは、右手の細い川を、顎で示した。
「昼から、ずっと横を流れていた川です。……さっきから水が濁り始めています。上流で川をかき乱す何かが動いている可能性があります」
クラリスは、川を見た。言われてみれば、多少濁っているように見える。
「アルダーン陛下の懸念も杞憂でなくなったわけか」
後ろから戻ったユアンの声は少し緊張していた。
「あいつの戦略を見る目は抜きん出てるからな」
チェーザレは騎士の数や配置を考えるように後ろを振り返り見渡しながら言う。
クラリスは背筋が、冷たくなった。荷を守るように進んでいたこの隊が、いつのまにか、狙われていたのだ。
「食糧は、一旦、離して隠す。来る道に窪みを見つけておいた。そこがいいだろう。」
チェーザレが、てきぱきと言った。深刻な顔のまま、けれど手際は、少しも乱れない。
「後ろ半分は、荷を積んだまま、来た道の窪地へ引いてくれ。ラウレンツ殿、指示できますか?あそこなら、森からも川からも見えない……残りで、囮の隊を組む。それから、姫。板が要ります。広範囲に臭いを消したい。」
クラリスは、馬上で、背筋を伸ばした。
風は夕刻になって強く、そして冷たい。今の板だと完璧ではないかもしれない。クラリスの頭には瞬時に新しい式が浮かぶ。
「……はい。半刻ぐらい時間はありますか」
その声が、思ったより、しっかり出たことに、自分で少し、驚いた。
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