本隊の進軍
本隊の出発は、翌日の予定だった。
中庭は、朝の騎馬隊が去ったあとも、慌ただしい。荷馬車に、麻袋が次々と積み上げられていく。堅パン、干し肉、豆の袋。その脇で、樽が転がされ、水が満たされ、蓋が打ちつけられる。クラリスは、水の量を確かめ、帳面に印をつけていった。
ほとんどの騎士は、本隊に残っている。それなのに、砦は、朝より静かになった気がした。ジルヴェスターがいない寂しさなのかもしれない。
けれど、その静けさは、長く続かなかった。
「奥様! この袋、お持ちしますよ!」
麻袋をひょいとクラリスから取り上げると、若い騎士が楽々と担ぐ。
樽の数を数えていると、他の兵が話しかけてくる。
「奥様、あの土の壁は、どうやって思いつかれたんです? 俺、あの夜、出口のところにいたんですが」
「奥様。アルダーン西部の麦畑に行かれたんですよね? 俺の生まれも、あのあたりで」
次から次へと、騎士たちが寄ってくる。荷を積む手を止めて、あるいは積みながら、口々に。土の魔法のこと。故郷のこと。あの砦の戦のこと。クラリスは、樽に印をつけながら、少し面食らって、目を丸くした。
すぐ後ろの耳元で声がした。
「陛下が、いらっしゃらないからですよ」
クラリスはびくっとし、振り返る。出発のときから、ぴったりと張りついているディートリヒだった。荷馬車の陰から、周りを——無駄に——警戒するように見回しながら、目を光らせている。
「陛下がいらっしゃると、あのオーラですから。なかなか奥様に声をかけられないじゃないですか。……おい、そこ。さっさと運べ」
騎士たちが、ばつが悪そうに、荷積みに戻っていく。
ジルヴェスターがいたとしても、彼は軍議軍議で忙しく、そんなに長い間一緒にいた記憶はない。あまり状況は変わらないのに、と、クラリスは首を傾げた。
だが、話しかけられることで、アルダーン軍の一員と認めてもらえている気がして、心は弾んだ。
ふと、そばからひとときも離れないディートリヒを見る。
「ディートリヒも忙しいでしょうから、私のことは、今は気にしなくても」
「陛下から、離れるなと言いつかっておりますので」
ディートリヒは、大真面目だった。黒い髪の下の顔は、まだ少しこけているけれど、目だけは、任務を与えられた犬のように、きらきらしている。
一体、出発前の砦の中で、何があると言うんだ、と思ったが——クラリスの護衛を外されたニクラスが、しばらく立ち直れなかったという話を思い出して、それ以上言うのはやめた。騎士には、騎士の役割に対するプライドがあるのだ。
そこへ、ユアンが、荷馬車の間を縫って寄ってきた。片手に、積荷の帳面を持っている。
「相変わらず、人気ですね。姫様は」
からかうように言いながら、荷馬車の縄の結び目を、片手で確かめる。数えるでもなく、触っただけで、緩みを見つけて結び直した。
「ユアンこそ。もう、リアンツァの兵と、すっかり」
「僕は、どこでもやっていけますので」
ヴィルス兄様は寂しがるなろうと思いながらクラリスは見つめた。
「奥様。少し、よろしいですか」
振り返ると、ルークと、チェーザレがいた。
チェーザレが、丸めた地図を、小脇に抱えている。ちょっとあちらに、と顎を向ける。クラリスは、樽の帳面を近くの騎士に預けて、立ち上がった。ユアンも、当たり前のようについてくる。
荷馬車の列から少し離れた壁際へ——ディートリヒも離れないので、五人で寄った。チェーザレが、樽の上に地図を広げる。
「姫。あの、隠れる魔法なのですが」
チェーザレが、地図をとん、と叩いた。
「あれ、どのくらい広く使えますか? ……人ひとりじゃなくて、もっと、こう、広く使いたいのですが」
「広く……ですか」
クラリスは、少し考えた。なぜそんなに広く、と思ったが、そこはあまり触れずに、頭の中で式を展開していく。人ひとりを覆う粉を、面に広げる。
「うーん……できなくは、ないですけど。広くすれば、それだけ魔力を喰いますし、何より——広くなればなるほど、風とか、日当たりの影響が、大きくなります。人ひとりなら、風の陰に隠せても、広い面だと、どこかで必ず、めくれて見えてしまうと思います」
チェーザレが、渋い顔をした。
「……だけど」
クラリスは、続けた。
「臭いだけなら、話は別かもしれません。姿を隠すのは難しくても、臭いで気配を消すだけなら、広くても保ちます。……たとえば、夜。魔獣は鼻が利きますけど、暗くて目では見えにくいですよね?そういう条件なら、臭いだけで、広い範囲を隠せるかもしれません」
「臭いだけ、ですか」
チェーザレは、考えるように、こめかみを抑えた。
クラリスは、地図の上を、指でなぞった。道の、西側。
「これだけ広い範囲を隠すなら、いっそ、隠れる場所そのものに紛れたほうが、確実です。この道、ずっと西側に、森が広がっていますよね。その森の暗がりに入ってしまえば、あとは臭いを消すだけでいいので」
「なるほど。西の森ですか」
横から、ユアンが、地図を覗き込んだ。指で、森の縁と、道の距離を測る。
「道から森まで、いちばん近いところで、二百歩ほど。荷馬車でも、四半刻あれば入れますね。……いい考えです、奥様」
チェーザレと、ルークが、顔を見合わせた。
「……だな」
チェーザレが、地図の西の森を、指でたどった。
「この道は、ずっと西に森が続く。その暗がりに紛れて、臭いだけ消す。……それなら、確かに、いけるかもしれん」
クラリスは、三人の顔を見た。何に使うのだろう。荷を運ぶだけなら、こんなに広く、身を隠す必要はない。
「……あの、これは、何に使うんですか」
「ジルヴェスターがですね、まあ、異常に心配性だったのもあるのですが、一理あると思う点もありまして」
チェーザレが、少し肩をすくめた。
「万が一のための、準備ですよ」
チェーザレもルークも、何か引っかかる点でもあるのだろうか、とクラリスは見たが、それ以上ここで話す気はないらしい。ユアンだけが、地図の西の森を、まだ指で軽く叩いていた。
「……分かりました。では、板を作っておきます」
クラリスは、頷いた。
「広い範囲に、臭いだけを撒く用の板を、いくつか。森に入ることを前提にすれば、そんなに難しくないと思います。……夕方までには」
「ありがとうございます」
チェーザレが、にっと笑って、地図を巻いた。ルークが、その隣で、いつもの気だるげな顔のまま、けれど少しだけ感心したように、クラリスを見ていた。
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