進軍2
ジルヴェスターが支度のために部屋を出ていき一人になると、急に、さっきの返事を悔やんだ。
——やっぱり、一緒に行きたいと素直に言えばよかった。
落ち着いて考えれば、前回の砦の戦でマンティコアに攻撃されそうなところを助けられて、今後は庇護下に置くと言っていたではないか。ジルヴェスターは、私が彼の隣にいるか後方にいるか、どちらが安全かを考えてくれていただけ。そんなこと、すぐに分かることではないか。エリザベスとの関係でやましいことがあるのではなど疑ってしまった自分が、恥ずかしい。
クラリスは、目頭を押さえた。
砦の潜入のときと、同じだ。彼が出発してから、きっと眠れない夜が続くだろう。だが、どうなっているか分からない領地への突撃など、そもそも危ないに決まっている。そこに自分がいたら、きっとジルヴェスターは、思い通りに動けない。これでよかったのだと、無理やり、思い込む。
そして、朝は、あっという間に来た。
中庭は、まだ薄暗いうちから、蹄の音と、鎧の擦れる音で満ちていた。騎兵三百が、隊列を組んで、出発を待っている。白い息が、朝の冷気に何百と立ちのぼって、松明の火に照らされていた。
その中に、ジルヴェスターがいた。今日は黒いチュニックに、黒い鎧を着けている。朝の霜が睫毛についているのか、その睫毛が、きらきらと目立った。
彼は、チェーザレと、ユアンと、ルークと、砦の壁のそばに集まって、何か深刻そうに話している。ジルヴェスターの眉が寄っていて、チェーザレが、分かった分かった、というように両手を上げている。ユアンは、いつもの猫のような顔で頷きながら、けれど少し呆れている。近づいていくと、三人が、ほとんど同時にクラリスに気づいた。
そして、三人揃って、やれやれ、という顔をした。
「……何を、話していたんですか」
「いや」
チェーザレが、にやりと笑った。
「姫様の旦那が、あんまり心配するもんでな。荷馬車の並べ方から、夜の見張りの数から、王妃殿を天幕のどのあたりに寝かせるかまで、細かく細かく指示を受けていたところです」
わざとらしく、敬礼を取ってみせる。
「『後方の守りは足りているか』と。……姫様。陛下は、王として一軍を率いる方とは思えないほど、心配性でいらっしゃいますね」
ユアンが、涼しい顔で付け加えた。
当のジルヴェスターは、何を言われても気にしていなさそうである。
「今回から、ディートリヒをクラリスの護衛につけた。何もないことを祈るが、何かあったときは、彼から離れるな。……こういう指示は、きみには無意味なようだがな。とにかく、勝手な行動はするな。何かするなら、ディートリヒかルークを連れてくれ」
ルークが、マントに包まり、襟を口元まで上げながら、口を開いた。
「奥様は、向こう見ずすぎますからね。それに、トラブル吸い寄せ体質な気もしますし。……きっと後方でも、何かしらトラブルが発生するでしょう」
クラリスは、口をあんぐりと開けた。
「どうして、私がそんなトラブルを持ってくるというんですか。確かに、無理をしすぎてしまっていたことは、認めますが……」
それに対して、皆、沈黙を続ける。
ジルヴェスターだけが、眉を寄せて、ため息をついた。それから、クラリスに近づくと、ぐっと抱き寄せて、額にキスをする。
そして、ひらりと黒馬に跨った。
見上げると、朝の松明の火が、金の髪と黒い外套の輪郭を、縁取っていた。
騎兵たちは、クラリスの作った身を隠す板を、それぞれ数枚ずつ、鞍に括りつけている。マンティコアの悪臭のする、あの板だ。ほかにも、水袋、矢束、乾した糧食。身軽な、速く動くための装備だった。
クラリスは、最後の確認をしながら、隊列を回った。板の魔石を一つずつ、指で確かめていく。
「板に刻んであるものは、条件が揃わないと、ちゃんと働きません」
クラリスは、皆に聞こえるように、声を張った。
「風が強いと、隠しきれずに、見えてしまうことがあります。日が高いときも同じです。過信は、しないでください。……あくまで、気づかれにくくするだけのものですから」
騎兵たちが、頷いた。
「クラリス」
ジルヴェスターが、馬上から、こちらを見下ろした。
「無理はするな。ディートリヒから、離れるな。……いいか?」
「はい。……ジルも、気をつけて」
言いたいことはもっとあるのだが、根本的に口下手なクラリスには難しい。行かないで、とか、やっぱり連れていって、といった言葉はぐっと飲み込む。そしね、見上げて笑った。彼は、その顔を、少しのあいだ、見ていた。何か言いたそうに、口を開きかけて——
「行くぞ」
隊列の先頭で、セラフィンが、小さく言った。
ジルヴェスターは、口を閉じた。それから、手綱を引いた。黒馬が、向きを変える。
蹄の音が、地面を叩いた。三百の騎馬が、白い息を残して、薄明の中を駆け出していく。ジルヴェスターの黒い外套が、いちばん前で翻って、みるみる小さくなっていった。門を抜け、高原の縁を降り、朝靄の中へ。
あっという間に、見えなくなった。
クラリスは、その方角を、しばらく見ていた。胸の内側に、また、あの重たいものが戻ってきていた。彼の姿が消えた高原の縁が、白々と明けていく。
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